やらされる
イヤイヤやらされる、勝手に要求されて、応えられなければ叩かれる。
この社会での、日常風景。少しばかり要求が、大きすぎて苦しめている事実。
そこまでの要求を、ヒトはなぜしてしまうか。おそらく、とても不安だから。そして少しばかり、ラクをしたい怠惰の表れ。
カタチを追って、それにハマるように要求する。イヤイヤでも、やらせてしまう。それが世の中のカタチなので。
これはどうも思いやりのない。そして少し安易とも感じる。
世の中のカタチに合わせる事は、必要な場合もあるし、やらされている方が、ウラを見るコトをしなければ、イヤイヤを感じないのも確か。
やらされても、まだモノ知らぬゲストのうちは、経験として楽しめるかもしれない。
ただ、たくさん経験したモノ、ウラ側を見る能力があるモノに、やらせても苦しみの結果が残るだけ。
世の中のカタチの方を、変えていく手がある。要求ではなく、カタチ自体を変化させる。
世の中のカタチを変える事が、大きすぎてとても手に負えないなら、折り合いをつけていく手もある。
要求も折り合いをつけながら、世の中のカタチに少し逆らいながら。
やらされるも、やらせるもヒト。世の中の形を作るのもヒト。本来どちらも選べるし、変えてもいけるハズ。
ヒトが少しずつ安易でない方向を選んだら、世の中のカタチも少しずつ変わっていくかもしれない。イヤイヤやらされない方に。