多分分かる世の中の事

無理

過信の巻

人はどうして無理をしてしまうんだろう。無理をして追い詰められて、体を壊して。確かに、少しくらいなら無理は利くけれど。あくまで少しくらいだろう

無理をするのは、それが脳では出来るような気がするからだろう。脳の中では出来ている。となれば現実でも出来るだろう。確かにそうかもしれない

ただ、不確定要素というモノが存在する。何かあった時でも、無理の状態ではそれに対応する余裕が無い。無理の中では、ヒトの為に時間を割くという余裕も無くなってしまうだろう

脳というのは、罪作りだと思う。なんとなく出来そうな気にさせてしまう。出来無いハズなのに、何とか出来る気にさせてしまう。本当に困った存在

本来は無理な場合、システムの側を変えなくてはいけない。システムの不備により、無理をし続けるというのは乱暴な話だろう

ただ、無理というのはクセになる。日本人は無理が好きだと思う。無理をしている自分が好きなのだろう。体を壊してでも無理をしてしまう。日本人も困った存在

日本人はシステムを変えるという発想はない。自分でなんとかしようという発想しかない。自分でシステムを作れるという考えが無いのかもしれない

それはある意味仕方がない。ずっと強力な支配の歴史があり、現在においても儒教の思想ははびこっている。本当の儒教ならイイが、権力者に都合のいいご都合儒教がはびこっている

こんな中では、自分達でシステムを変えるという発想がないのも当然だろう。ガマンを良しとする儒教の考えでは、下の者はともかくガマンを強いられる

ガマンというのは無理をするに繋がる。ご都合儒教の中では、無理が横行してしまうのも当然と思う。そしてシステムを変える発想がないのも当然になる

本来の儒教は、無理を強いるだけのご都合儒教ではないだろう。もっと慈愛に満ちたモノと思う。かなり昔に権力者に歪められたのだと思う。それが現在にまで、歪められながら引き継がれている

無理があったら、システムを変える。システムが変わるまでの無理は仕方がないのかもしれない。無理があったら主張して、システムを変えて貰う。その交流も尊いだろう

結局ガマンを強いるご都合儒教のはびこりにより、交流すら妨げられている。もっと交流して改善をするからこそ、システムは高度になっていく。日本は未熟なシステムのままだろう

無理をすることに喜びを感じるべきではないだろう。無理は直すべき点。システムをより高度にする為に、主張をして交流を増やし、頭を使って改善していくべきと思う

2008年6月の月間大賞を発表します。6月の月間大賞は、でした

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