ありふれるの巻
<沢山は、落とし穴。無価値と感じさせるが、それは価値が無いのではなく、自分が無能という証明。無能と思われたくないなら、価値を掘り起こすしかない>
沢山ありすぎるモノって、正直負担と感じる。経済でも、沢山あるモノは価値が無い。逆に少なければ価値が高いっていうのは当然のカラクリ。同じモノでも、多いか少ないかで価値は変わる。触れる・・・・・・・・・・・・・
沢山触れる。触れあう時間が長いほど、その価値も見えなくなる。自分が沢山時間を過ごしたモノは、日常になってしまって価値が無いように思ってしまう。これは、何か嫌なモノを感じる。本当に価値無いのか?ズレ・・・・・・・・・・
ズレていく。自分の中で沢山溢れて、ありふれる程に、ズレていってしまう。どんなモノであっても、価値があるように思えなくなる。これは一種の病気ではないか。誰でもこじらす病気。適切・・・・・・・・・・・・・・・・
適切な判断。誰にとって、どれだけの価値があるのか。一端立ち止まって、冷静に分析するのもイイように思う。自分の日常に近いモノほど、無価値に見えてしまうが、それは正しい判断か。自分にとってという、自分基準は危険かも。開拓・・・・・・・・・・・・・・・・
開拓する。価値を感じてくれる誰かを開拓する。自分やその周りでは価値が無くても、少し離れるだけでも価値は出てくるかもしれない。たえず、開拓していくのも大切と思う。自分の周りの価値に、浸かりすぎるなってコト。数え・・・・・・・・・・・・・・・
数え上げる。価値は埋没しやすいモノ。そこから拾い上げて数えてみる。どのくらいの価値があるのか。沢山あったり、ありふれているからといって、その中に埋没させるべきではない。見失ってないで、ちゃんと見ろってコト。本物・・・・・・・・・・・・・
本物か。世間で言われている価値は本物か。実はこれも怪しい。世間といっても、それぞれの自分の集合体。価値を見失うという、同じ病気の中にある。信じ切って良いモノじゃない。そう考えると、価値なんていい加減だね。目利き・・・・・・・・・・・・・
目利きになる。本物を見極める目を持つしかない。実際どうやるかと言えば、最大の価値になるコトをいつでも考えるコト。その相手と、状況。更には加工や演出で価値をプロデュースする事も含まれる。価値は、そのままじゃなくて高めても良いのか。縮小・・・・・・・・・・・
縮小し続ける。価値は、放っておくと縮小し続けてしまう。誰かが価値を掘り起こさなければ、価値は下がる一方。結局誰か価値を上げている人がいる。その人が上げて、みんなが下げる。お礼も言わないまま、恩恵を受けているワケね。際限・・・・・・・・・・・・・・・
際限なく膨らむ。逆に価値を、際限なく膨らませる事も出来る。価値は決まっていない。演出や加工の仕方によって、際限なく価値は高める事も出来る。価値無いなんて、本当には分かってないって、みんなに言っているようなモノ。やり方によって、価値は高くなったり低くなったりするのか。沢山・・・・・・・・・・・
沢山ある。沢山あっても、無価値じゃない。無価値にしてしまうのは、無能と言うコト。日本人は価値を作り出すのが苦手。というコトは、日本人は無能と同じ。有能になりたいなら、価値を掘り起こす事、それしかない。という手厳しい指摘を、今日の結論として締めましょう
沢山は、落とし穴。無価値と感じさせるが、それは価値が無いのではなく、自分が無能という証明。無能と思われたくないなら、価値を掘り起こすしかない
ひゃ〜!!価値を作り出せないと、無能なのか。誰かが作った価値にのっかてる方が簡単だし、価値は決まりきってると思ってたから、考えたコトもなかったね。日本人が価値を作り出すのは苦手だし、それで日本人は無能!!って言い切っちゃうのは極端だけど、必要な気がする。強力な固定観念と戦わないといけないし、グローバル化の中で、新しい価値生み出すのは有効だから。厳しすぎるけど、自分にも日本にも、今は無能を刻みつけて、超進化を遂げて欲しいし、遂げたいモノです。そんなこんなで明日ですよ〜〜ん
明日は『蜜』というタイトルで、お金の効能について考えます。お楽しみに!!