えすかれーしょん

まもりたい

違う命と居る効果は?

哲学・思想

<守りたいは、違う命。違うテーマの生き様が、解放してくれる。負担だけど、癒されもする>

守りたい違う命。人でも、人でなくても。自分が守らないといけない命と居ると、どんな効果があるだろうか。自分が居なければ、死んでしまうかもしれない。そんな負担が掛かってくる。それは辛いだけではないのか。生きている・・・・・・・

生きている姿。違う命が生きている姿を見るだけで、何らかの作用がある。自分とは、違うテーマで生きている。その違いを感じながらも、同じ生きるという事をしている。その不思議な感覚。それが負担よりも勝っていく。逃げたくなる・・・・・・

本来、負担からは逃げたくなるモノ。にも関わらず、負担の方をとる。それはなぜだろう。逃げてしまえば楽なのに、それよりも違う命と居るコトを望む。その中に何を見るのか。どんな作用があるのか。命の感覚・・・・・・

命の感覚を感じられる。命の感覚というのは、事実。生きているという事実。そして、これからも生きていくという事実。それを感じるコトが出来る。しかも自分とは違うテーマで生きている。それは不思議な感覚。関係ない・・・・・・

一緒にいたとしても、自分のテーマとは関係ない。自分とまるで別の道を歩いている感覚。それが事実としてそこにある。おそらくその時に、自分のテーマと離れるコトが出来る。違う命の方に、一旦逃れるコトが出来る。解放・・・・・・・

逃れるというのは、解放。自分がやらなければならないモノから、解放される。それが心地良いのだと思う。自分のテーマにずっと自分が囚われるのは、辛い。そこから解放されるコトがあると、緊張を緩めるコトが出来る。癒し・・・・・・

それが癒しになるのだと思う。違う命と居る事は、癒しになる。それは緊張から、解き放たれるから。とすると、いろんな命と居るのが良い。いろんな命が、それぞれのテーマで生きている。実際命は、そこココに居る。いっしょ・・・・・・・

そこココにいる命は、とても小さく取るに足らないと思わせる。それでも、一緒にいるイメージを持てば、解放されるのかもしれない。取るに足りないと別物としては、解放されない。楽だけど、解放されない。厄介・・・・・・

厄介な事も増えるかもしれないけれど、違い命をイメージした方が、解放される。あらゆる命が、それぞれのテーマで生きてると思えば、解放される。誰の体の中にも、信じられないくらいの細菌が居るワケだし。無責任・・・・・・・

腸内細菌に関しては、無責任でイイのかもしれないけど。でも一緒に生きてる。違うテーマで。必死に生きてる。そんな命達と、自分の生き様。自分も、細菌と大して変わらない。生きているのは一緒。取るに足らない・・・・・・

自分の存在も、取るに足らないモノ。仰々しく捉えるコトもないのかもしれない。他の命にとったら、自分も違う命。取るに足らない命かもしれない。そう思うと、緊張も弛む。癒されるね。そんな癒され方もある。それを、今日の結論として、締めます

守りたいは、違う命。違うテーマの生き様が、解放してくれる。負担だけど、癒されもする


そうか、癒され方っていろいろある。負担を越えるんだね、癒しの方が。それって不思議。自分と違う生き様と出会うって、そんなに大変なコトじゃないから、意識を変えれば癒される方法って、いろいろあるのかもしれないですな。そんなこんなで、明後日に続きます

明後日は『純粋と不純』というタイトルで、その差について考えます。お楽しみ!!

-えすかれーしょん