えすかれーしょん

もっていきどころ

もっていきどころ

というタイトルで、怒りについて考えます

最終的

怒りの最終的なもって行き所は、どこだろう

怒りが最終的に行き着くのは、自分

つまりは、最終的に引き取る存在は、自分なのではないか。そう思う

どこかにぶつけたり、その場で発散するコトはある

でも、本当にぶつけて、発散できているのだろうか。それを少し疑問に思う

確かにどこかにぶつければ、スッキリする。発散できたように思う

でもチョッと待って欲しい。なにか、引っかかる

見えないが、自分に返ってきてるような気がする。たとえるなら、そう、反作用

反作用のようなモノは、自分に返ってきている。気づかぬうちに、それを引き取っているのは自分

そんな気がする

とすると、誰かにぶつけたようで、その分は自分にも返ってきている

ぶつけ所のない怒りを、自分だけで引き取るよりはマシかもしれない

ただ、全てをぶつけてはいないのだと思う。半分は必ず自分が引き取る

半分だから、分かち合いだろうか。大きい意味で、世の中で分かち合って吸収してる

このシステムは、なんだろう。そう言うシステムのように思う

社会のシステムの中で、そうやって分かち合って何かを吸収しているように思う

人は、智慧がある。未来を想像する能力がある

そのチカラによって生まれる不安。そして、他のヒトに対しても、想像する能力は働く

権限を持っていて、その権限を生かし切れていないヒトに対して

やるべき事がある人が、それに満たない場合。つまり政治家が、その務めを果たしていない時

それも、怒りになっていく。本来やるべき事を出来ていない

想像する合格ラインに、達しない。それが憤りになる

それは社会の不満。溜まってくれば、大きな社会運動にもなり得る事

怒りの共有。怒りというのは、共有されて行動になる

社会の中で個人が受けるはずのモノ。それが、大勢を動かす原動力にもなる

想像する能力から、不安や憤りが生まれて、怒りの共有により社会運動は生まれる

怒りは個人のモノのようで、結構社会的なモノ。そう言えるのではないか

これはとても不思議。感情は、個人のモノ。でも怒りは、社会で共有して吸収されていく

より大きなエネルギーを生み出す、システムのように感じる

最初から、そう仕組まれているのではないか。そうも思えてくる

怒りは情報に乗り、共有され、吸収されていずれ消える

行動も、怒りを増やす為ではなく、消す為の行動なのではないか

たとえば、デモなども遠くから見れば、怒りを消す為の行為

いずれ沈静化されるのは、当然のコト。広まるが、チカラは消耗し吸収されていく

怒りはいずれ治まるモノ。その時その時に、発光するようなモノ

なんの為のものかと言えば、そこに解決しなければいけない問題があるという、お知らせ

怒りというのは、お知らせ

意外な結論になった。怒りは、問題があるコトを、みんなに知らせる役目を持っている

解決できないコトが多いので、厄介だが、本来は問題に取り組まなければいけない状態

お知らせはある。そのお知らせに誠実に対応するコトが、本来求められているのだと思う

怒りの元に何があるのか、警告の大元を探り改善。社会の治療の時ってコトなんでしょうね

もって行き所は、社会。怒りは、警告として様々に痛みとして、広がる。よっぽどにならないと、変われない実状がそこにある

そうだよな〜。よっぽどじゃないと変われないし、凄い代償払わないと変われない。怒りは変える為のキッカケ。社会の仕組みはそうなってる。もっと早く変えちゃえば、傷は浅くて済むのに。何とも社会って、愚図というかのろまで、変わりたがらないって事なんでしょうね。では明日でございまして

明日は『ズレ』というタイトルで、与党の落とし穴について、考えてみます。お楽しみに!!

-えすかれーしょん