もたらす
というタイトルで、表現について考えます
何が出来る
自分は、何をもたらす事が出来るだろう
自分と自分以外のヒトとの関係
もしも自分だけで生きるのなら、それはナニかが足りない
自分だけというのは、とても小さい世界。とてもわずかなモノ
誰かのプラスを作れて、自分の価値は増すように思う
そこから、自分の存在理由が出来るような気がする
自分の為だけの生き方は、そこら辺の虫と大して変わらない気がする
虫と同じにされたくない。虫には失礼だけど、虫よりも能力はある
その能力で、自分以外の存在にも、プラスを作れるハズ。そう思う
そこで、自分以外のヒトに、何かを与えたい。何かを与えるという表現
この表現には、違和感を感じる。与えると言えるような、立場ではないから
そんな立場にもなりたくはない。出来れば同等か、自分の方が下の立場で
与えるというのは、おこがましい表現
そんな表現を使うようでは、不純なような気がして、自己満足で終わるような気がして、とてもイヤな感じ
提供する、もしくは、もたらすという言葉を
表現としては、もたらすというカタチを使いたい
場合によっては、提供するというカタチでイイと思う
提供する場合は、キッチリとしたカタチあるモノで、量も決まっているモノ
表現としては、少し堅くて、範囲は狭い。それでも、場合によってはそちらの方がイイ
ハッキリするし、明確。でももし明確でないモノだとしたら
その場合は、もたらすでイイと思う
自分は、自分以外の存在に何を、もたらせるだろう
自分が何をもたらせるか、それを意識するだけで、違って来るように思う
今まで、おこなってきた事。それも、もたらしているという表現なら、意味合いは変わる
少なくとも、やっている感や、やらされている感から解放される
もたらすのは、やっているワケでも、やらされているワケでもない
それは運命的であり、神がかってもいる。自分という個人を越えている
それって、実は求めていた。自分が、もたらせる程の存在になるって、とても嬉しい
しかも押しつけがましくもない。どんなにあげても、無くならないイメージもある
無くならないイメージ。とても不思議だけど、もたらすは無くならないイメージ
与えるだと、自分のモノを与えてしまう。自分のモノが無くなってしまうイメージ
提供するでも、無くなってしまうイメージ。でも、もたらすは無くならない
もたらすものは、自分の中から湧き上がるモノ。湧き上がってくるモノを、あげるイメージ
どうせ捨ててしまうモノとか、拡散してしまうモノ。それを人にあげるだけ
だから無くならない
もたらすは、無くならない
さて、自分は何をもたらせるだろう。もたらすモノは、自分の中から湧き出るモノ
自然と出てくる。無理に出すというより、ある程度自然に出てくるモノ
どちらかというと、天性に由来する能力
自分は何を、もたらせる。この問いかけは、自分の奥深くに問いかける言葉
上辺だけで出来上がるのではなく、奥深くから成り立っていけるモノ
しかも相手にも押しつけることなく、自然な感じで存在できる
もたらすは、個を越えて、まるで空気のように自然になれる。とても自然な行為
自分が何を出来るか分からないが、それは自分の意識を越えた行動
意識という、個から解放された行動。個から解放されて、とても楽で気持ちが良い
与えるとか、あげるじゃなく、もたらしていこう。それで幸せな気持ちになれる
今やっているコトも、もたらすにすり替えていけば、細かいコトを気にしなくて良いように思う
見返りを求めるような事も、なくなる。このもたらすには、まだナニかが隠されている
悦びの境地に至れる、この表現。でも、今日はここまで
また、何か新しいコトがわかったら、このブログで紹介したい
もたらすは、無くならない。意識を越えた、悦びの境地。自分が洗われる行為でもある。自分は何かを、もたらせているか
そうか、もたらすって深いんだね。まだ全貌が見えていないよ。というより、これ入り口だな。なんで悦びの境地なんだろう。でも、それは間違いない。普段は辿り着けない、悦びの境地に確かに行ける。まだ、知らない世界があるって事だね。よし、もたらすって事を意識しながら、探って行こっと!
それじゃ明日ですよ。『型』ってタイトルで、言葉について考えますね。お楽しみに!!