もめる
というタイトルで、人間社会について考えます
グラデーション
人間社会は、グラデーションなので、揉めるように出来ている
端から端まで、その間は何段階もあり、いろんな人が存在
同じではないので揉める。同じじゃないから、理解が出来ない
理解する努力もしないで、理解出来ると思っているから、そりゃ揉める
揉める行動を、する人がいるワケじゃない。理解出来ると思い込んでるコトが原因
いろんな人がいるから、自分を基本としては考えられない
基本としても、通用しない
もしも自分と同じで、自分と同じように考えればうまくいくなら、有利ではある
でも、それで絶対揉めないかと言えば、そうでもない
やはり揉めると思う
おそらく揉める原因というのが、別の所に
揉めるというのは、自分本意だから
自分本意の行動が、揉める原因になっている
考え方も、端から端まで段階的にいろいろあるが、もしも自分本意でなかったら
それぞれ理解出来ないが、自分本意をやめたらどうなるだろう
相手本意ならば。そうすると、違いを尊重できる
まず違いがある事に、気づける気がする。相手本意だから
違いに気づいたあとも、理解しようと努力
たとえ理解出来なくても、揉めるコトはない
なるほど、揉める理由は考え方の違いではなく、自分本意が生み出すのかもしれない
真逆の考えでも、相手本意ならば、揉めないだろうか
自分の考えはある。譲れない考えもある場合は、どうなる?
譲れない考えがあったところで、相手本意。相手の考えは否定はしない
もしも譲れないなら、賛同しなければいい
自分の意見として、考えを述べても大丈夫。相手本意でも、自分の考えとしては述べられる
相手の考えと、真っ向違ってても良い。それは当然のコト
その当然のコトと捉える、線引きもあった方がイイか
そこで線引きして、いろんな考えがあるってした方が、納まりはイイかもしれない
相手本意だけど、線引きの中で、自分も譲らない
相手本意だからといって、同調する事もない
個として、確固たる考えは持っていても良い。でも、相手の考えも尊重
どんなに間違った考えでも尊重して、自分の考えも置く
そうすると、最初からいろんな考えの場所を、作っておく必要がある
元の姿が、いろんな考えがあるのだから、表面化する時もいろいろなのが自然
それを妙にねじ曲げる必要は無い。ねじ曲げてしまうと、揉めるというか、元々無理なコトなんだな。ソレ
いろいろあるモノが、妥協したり力尽くであったりで、少ない選択肢になる事自体が不自然
自然のいろいろな考え方がある中で、どうするべきか
どうすれば、みんなが幸せになれる最善の方法かを考える
つまり、材料を全部出し切った上で、新たに選択肢を作る作業
なるほどなるほど、見えて来た。今までは、自分の考えを通そうと、しすぎていたのかもしれない
通すのではなく、新たに選択肢を作ればいい
コレをしてこなかった。それが間違いかもしれない
かなり浅い所で、終わっていた。何も始まってない所で、揉めていたのかもしれない
お粗末と言えばお粗末だが、そんな侮辱をしても何も進まない
今まではそれで良かった。でも、これからもそれを続ける必要は、無いように思う
少しずつ変えていけばいい。少しずつ変えて、その上で新しい選択肢を出せるシステムに
それって、人間社会の行くべき方向性なんだろうなって、思うね
揉めるは、自分本意。いろんな考えをそのまま出して、その上でどうするか。最初から決めない。出揃ってから、作るのがベスト
そうか、いろんな考えが出揃ってない時は、不自然なのか。出揃うまで、始めちゃイケないのかもしれないな。出揃うって重要。面倒臭いけど、それで全てが尊重される。それで人間社会の全体像が見える。出揃ってどうするかを新たに作る。コレが向かうべき道だね。自分としてはとてもスッキリです。ハイ
明日は『拾う』ってタイトルで、コミュニケーションについて考えます。お楽しみに!!