えすかれーしょん

なまえ

今日は身近な名前についてチョッとね

なまえ

気にいっちゃいない

自分の名前は、自分で気にいっちゃいない

誰かに付けられるモノ。それが名前

なぜ名前を付けるかと言えば、識別

識別する為に、名前を付ける。最初は、名前なんて無い

どんな存在にも、最初から名前がついているワケじゃない

あくまで識別の為に、名前が付けられる

それまでボワっとしたイメージだったモノが、名前がつくと音声や文字に変換できる

音声や文字に変換して、みんなが共有できるようにする

本人が気にいっていようが、気にいっていまいが関係ない

目的は、共有する為の識別

名前というモノを通じて、関わりも始まっていく

名前を知らないのなら、それはとても関係が薄い。無関係と言ってもイイくらい

名前を知ったあたりから、関わりは始まる。ボワっとしたモノから、明確な輪郭になっていく

関わりの最初に、名前がある。それによって、脳の中の存在が固定化され、揺らぎにくい

脳の中でシッカリと固定して、記憶するには名前は不可欠と言える

とはいえ、気に入らない名前というのもある。それはとても不愉快

気に入る名前ならば、不愉快にならないだろうか

確かに、自分で付けた名前が気に入らないというコトはない

でも、不愉快さは残る。自分で付けた名前は、本当の名前ではないので、気楽ではある

気楽だから良いのだけれど、まだなぜだか不愉快さは残る

その不愉快さはどこから来るのだろう

おそらく自分という存在に、名前を付けられているコト自体が、不愉快にさせている

自分の広がりが、名前を付けられるコトによって、縛られとても窮屈と感じさせる

自分の可能性も何も、名前に絡め取られて、不自由になる

その不自由さが、不愉快にさせる

うやむやな状態から、名前を付けられるコトによって、明確になる

明確になると、自分の歩みも線のように残る

ここに居て、この名前のモノは、自分だけ。自由で無責任でいられたモノが、制限される

名前によりマーキングされ、監視下に置かれてしまう

監視下にいるというのは、確かに不愉快

名前を付けられるというコトだけでも、鎖で繫がれるようなイメージ

例えば外国に行ったなら、解放される

名前を知っているヒトも居ない。しがらみもない

名前がつくコトによって、おそらく相当しがらみも負う

しがらみ。社会の中に組み込まれる。その組み込まれる感

組み込まれた途端、自分とは別のルールで生きなければいけない

そのルールを呑まされる感覚。その覚悟が出来ていないうちに、名前はついている

組み込まれている。それは不愉快にもなる

名前は、識別。社会のしがらみの中に、組み込まれる。行動は、ゆるい監視下に置かれる。名前からは、逃れられない

名前があって、組み込まれるおかげで、恩恵を受けられもする。悪いコトばかりではないが、ワケも分からず組み込まれているのは、得体の知らない圧迫感でもある。この圧迫感は、社会に組み込まれている証拠。恩恵を受けているのだから、名前を付けられて、組み込まれるコトも諦めるしかないのかも

-えすかれーしょん