たもり
お昼
ずっと
お昼にずっと、タモリさんがいる。テレビはタモリ時代
お昼にタモリさんが出なくなったコトを、想像してみる
その時は、おそらく一つの時代が終わったと、感じさせる
紳助さんがテレビから去ったが、時代が終わったとは感じない
やはりお昼にタモリさんが出なくなった時が、一番感じる。時代が変わったと
時代というのは何だろう
その時代を生きるヒトには、ナニも感じるコトはない
あくまで後のヒトが、その期間を象徴する物で区切り、時代を作るだけ
その期間のヒトは、日々を生きるだけで、精一杯
時代というモノは、何も無いモノ。意識出来ない、括れるモノがあれば、何でも一纏まりの時代になり得る
歴史で習う日本の時代は、天皇でもなく、支配者でもなく、都の場所での括り
とすると、現代は江戸、東京時代
ただ、江戸と東京では様変わりしている。そこは違うモノとして、現代は東京時代と言えるのかもしれない
さらには東京も、大日本帝国時代と終戦後では、意味合いが大きく変わっている
もしかすると、第一東京時代、第二東京時代となるかもしれない
あくまで後の時代のヒトが決めるコト。どうなるかは、現代の人間に分かるハズがない
時代というのは期間を区切って、見出しをつけたに過ぎない
もしかすると、歴史で習った時代ではない区切り方も、あったかもしれない
時代というのは、とてもいい加減なモノ。決まり切ってはいない、基準も曖昧な存在
もしかすると、失われたモノに対して、思いを通わせる為かもしれない
文明は発展と共に、古いモノを置き去りにしていく。時代はそのモノ達と、もう一度触れあう行為かもしれない
過去へのドアというか、タイムマシーンというか
時代という、曖昧ではあるが入り口が存在し、そこから失われた者達と出逢う
とすると、未来に時代という概念はない。なぜなら、まだ失われていないから
時代というのは、失われてはじめて成立するモノ
出逢う入り口
タモリは時代。多大な影響を与えた者は、時代になりうる。未来のヒトは、今は無き存在と出逢う。発展と共に、実は沢山のモノを置き去りにしている