特別
価値のある存在
有名というのは、価値のある特別な存在
全く同じモノでも、無名と有名とでは、価値がまるで違ってしまう不思議
その不思議を考察してみたい
それは入り口から異なっている
有名な場合は、最初から注目されており、社会的認識も高い
話題にして、もしも相手が知らないとしても、それは知らない方が悪いと言うコトになってしまう
そういう、相手に対しての、制圧力も持っている
いろんなメディアや、くちコミが入り口になっている。その入り口から導びかれ、有名なヒトが送り出すモノに辿りつくコトになる
無名の場合は、あくまで偶然に頼り、その場に居合わせるコトで出逢うのみ
導かれるというコトはない
あくまで、偶然性に依存している
たとえ出逢えたとしても、無名だと取るに足らないモノとして、相手にされないコトも多い
無名はその時点で、低すぎる地位
有名であるならば、一目置かれて、それなりに優遇される
有名か無名かを決めている要素は、他のヒトの評価。社会的な評価があるかどうかに掛かっている
どうだろう?物事を見る時に、社会の評価で判断してはいないだろうか
そのモノの本質ではないモノで・・・。自分ではなく、最初からアリモノを評価する傾向にあるのではないか
それを否定出来るヒトは、どれだけ居るだろうか
私は全く否定出来ない。物事の本質を見ているつもりで、実は一番社会の評価で物事を振り分けてきてしまった
しかもマイナーなモノを、低く見たりもしてしまっている
とても恥ずかしくて、隠れたくなるような事実
この段階で、そのコトについてわたし自身、深く反省したい
もう一つ、有名なモノを拾っていく方が、実はラクだという側面もある
名前だけ出せば良くて、それ以上の説明をしないで済む
無名のモノは、そうはならないだろう
中身の説明も当然ながら、何で自分がそれを評価しているかまでを、説明しなければ成り立たない
有名なモノは、その説明を省ける。つまりとてもラク
生活する上で、名前だけで成立させているコトも、案外多い
知識人同士の会話になると、その傾向は強くなるようだ
あなたの言っているコトは、まるで作品(タイトル)のようだ。それじゃまるで書籍(タイトル)じゃないですか・・・など。
この人物を、この出来事を。全て名前だけでやり取りしてしまう
名前を出して、比喩とするのだろう。それで会話を成立させてしまう
知識人でなくても、有名人の名前だけで会話は成立する
誰々みたい。という表現でも、成り立ってしまう
有名なモノは、みんなでイメージを共有しているという、前提があるのだろう
名前を出すというのは、そのイメージのやり取り
でもこれは気をつけたい。たとえ同じ書籍を読んでいたとしても、そこから受ける印象はバラバラのハズである
ヒトに対してのイメージも、ひとつに限られるというコトは、あり得ないだろう
名前を出しただけで、話を成立させるのは、実は危険な行為をしているのではないか
相手に自分の思っているイメージを押しつける。それをしているだけの行為に、なっているやもしれない
無名の場合は、ザンネンながらイメージを押しつけるのは不可能な行為
前提となる、イメージの共有が存在しないから
その分自分で組み立てて、理解や説明を求められる。逆に言えば、相手に押しつける事もない
それだけに、無名を支持するというのは、良質で純粋な行いと、言えるとも思う
とは言っても、そのモノが、良いモノという保障は一つもない
良いか悪いか分からないモノに対して、どれだけ自分の時間と労力を使えるのか
そこにもかかっている。かなりの無駄を覚悟しないと、無名なモノと触れるコト自体リスクになるだろう
有名なモノであっても、無駄にはなる
そこには違いはないが、やはり有名であれば共有という、ラクさはある。
そのラクで、ある意味インチキが可能になるので、有名の方を選ぶ
特別で、価値ある存在としてしまう。それが答えとなる気がする
有名は、ラクである。無名を探し、判断し、説明するというのは、実は大変骨が折れる作業。片手間で生きるならば、やはり有名どころの優遇も否定出来ない