およびでない
拒否されるなんて、思っていない。
拒否されるほどに、消極的になっていく。
お呼びでない場所に入り込んで、拒まれる。どこが良くて、悪いのか、いちいち判断をせまられてしまう。
関係者以外立ち入り禁止という張り紙は、ありがたい。
関係者でなければ、お呼びでない事が一目瞭然だから。
問題は表記がない場合。普通に入り口から入って、拒まれる。
この場合、次から消極的になる。拒まれた恐怖が、次からの行動にブレーキを掛ける。
ここは入っても良い所か、いけない所かを、いつも判断しなければならない。
無難なのは、入らない事。拒まれる事もない。
京都には、いちげんさんお断りという店があるらしい。紹介がない客を、拒絶排除する仕組み。
いわば、会員制や、VIP待遇という所だろうが、なんともイヤらしいシステム。
それによって、特別感を演出しているのだと思う。
どうも拒むコトで、価値を作っている。
拒むコトで、守ってもいる。拒みは排除。排除するコトで、中の人間を守っている。
守られている方はいいが、排除された方はイヤな気持ちにしかなれない。
拒むというのは、せせこましくて、弱いヒトがする行為。
そのせせこましさや弱さの中で、ヒトは生きているのだろうか。
確かに、家の中は安全地帯。この安全地帯を作るコトで、安心して生活出来る。
タダで誰でもというのではなく、お金を払ったヒトだけに、商品を渡す経済活動も、拒んでいるカタチではある。
いちげんさんお断りというのは、さらに拒みを強くしたモノなのだろう。
拒みを作る事で、その中に入る為には、キーが必要になる。
そのキーは、お金だったり、誰かの紹介だったり。
それは守る意味や、価値を生む事にはなるが、気をつけないと消極性も生んでしまう。
ナニもしないのが無難というコトになれば、全体の活動は下がってしまう。これは相当の損害。
自由すぎるのでは価値が生まれないし、拒みすぎれば消極的になるだけ。
両方欲しいが、その中でヒトはどう生きればいいのか。
拒むコトは、アリとする。ただ、拒む場合は明記が必要。明記されていれば、容易に判断が出来る。
価値を作っても構わないが、それを開けるキーがナニであるかを示しておくというコト。
それで、価値も作れるし消極的にならなくても済む。
おそらく価値を作る側に、怠慢がある。本来は全てが自由なので、拒む場合は示す必要がある。
他を排除しながら、排除している方に回りたくないので、明記しないのだと思う。
どうかしている。拒む側は、拒んでいる以上悪者にならないとイケない。それなのに悪者になるコトから、逃げている。
京都のいちげんさんお断りというのは、その良い例だろう。とてつもなく卑怯といえる。
おそらく日本人というのは、とても卑怯。正々堂々となどしていない。
悪者になるコトから逃げながら、拒みはする。悪者だと気づかないまま、酷いコトをする。
それで、消極的になる。正々堂々と、悪者にならなければ、ならないのかもしれない。
お呼びでないは、卑怯。日本人の本質は卑怯者。価値を作りたいなら、悪者から逃げない。私も含め日本人が変わるのならば、そこからかもしれない。