こまぎれ
感覚はすぐ消えてしまう。
感情はどうか?
感情を、細切れに出来るだろうか。いや、どうも感情というのは、ゆったりした中にしか住めない。
あまり小回りが利かないモノらしい。
音楽というのも、細切れには出来ない。細切れにすればただの音になってしまう。
音が繋がったカタチが音楽。音の高低で変化をつけ、紡がれた流れを楽しむ。
音楽によって、感情も動かされる。
では、当の本人の感情自体は、どうなのだろう。細切れにすると、どうなってしまうだろう。
感情を細切れにされた場合、なぜかとてもイヤな気持ちになる。
感情は、その中に浸るモノ。それを細切れにされたのでは、落ち着かない。
落ち着かないというのが、イヤな気持ち。
感情というのは一つの世界で、その世界がコロコロ変わったのでは、不安定すぎる。
物事の真実は、二転三転するコトもあるので、そのくらいの変化は感情も対応する。
でも、それは真実に即しているという条件を満たす場合のみ有効。
真実は揺らがない。それだけに今よりもより安定した感情の世界があるという、保障があって感情を転じられる。
感情を切り換える時には、揺らぐコトのないという保障があって、成立する。
それで細切れには出来ない。そんなに頻繁に、変われるモノではない。
感情を音楽に乗せる場合も同じで、違う感情に移るにはなだらかに時間をかけながら、変化させる必要がある。
そうでないモノは、不快としか感じられない。
おそらく感情は、避難所の役目を持つ。感情と言っても、その種類は意外に少ない。
種類が少なければ、脳が処理をする量も少なくなる。
単純化された感情という避難所の中で、脳はゆっくりと真実を消化していく。
現実として受け止めたり、忘れたり、過去のモノとしたり、修正したり。
ともかく、理解出来ないループをくり返さないように、単純な感情という避難所の中で、着地点を模索する。
感情が現実を受け止める為の避難所となれば、細切れに出来ないのも当然なコト。
細切れでは、避難所にはなれない。コロコロ避難所を移る訳にもいかない。
嬉しい楽しい。悲しい。くやしい。腹立たしい。確かに単純。全ての真実を、数えられるほどの感情で処理してしまえる。
平時は、感情は必要ない。理解出来なくて、ループするコトがないから。
本来は、嬉しい楽しいというのも、避難所としては必要がない。
でも、想い出の中に嬉しい楽しいが無いと、味気ない。面白味がない。
同じように処理し、格納して、思い出の中にしまっておく。生きる気力は、嬉しいや楽しいの中で育つ。
とするならば、感情としてしまって置くモノとして、嬉しい楽しいは必要になる。
なるほど感情は、脳が処理する時間稼ぎ。または思い出として、二度も三度も楽しむ為の仕掛け。
場合によっては、思いだすコトに再び処理をして、またしまい易くする。
脳が処理をし易いように。それが感情の役割。そう結論づけたい。
細切れは、不可能。受け止めがたい真実も、感情という避難所に収めて、ゆっくりと処理する。感情が機械的なシステムだったのは、結構意外。