どくしょそうぞうぶん
10ページほど読む。
その後の展開を想像する。
10ページほど読んで、その後の展開を想像する、読書想像文。
最初の10ページほどを手がかりに、その先の展開や内容を予想する。
自分の想像通りに進んでしまうモノは、つまらない作品。
自分の想像以下であれば、さらに駄作と言える。
自分が想像したモノよりを、良い意味で裏切ってくれれば、良い作品と言える。
結局、裏切って欲しい。自分の想像を裏切り、思いもよらぬ方向に進み、にも関わらず破綻もしていない。
そんな作品を求めている。
連続のテレビドラマも、一回見終わる毎に、次の展開を予想している。
2.3話見れば、そのドラマの方向性が分かるので、展開の予想はしなくなる場合も多い。
どう転がるか、分からない段階での想像。それが楽しい。
ある程度までいってしまうと、転がり方が見えてしまうので、その意味では楽しめない。
おそらく、本を早く読んでしまうヒトは、そんなコトを想像する間もなく、その世界に入り込んでしまうと思う。
それはそれでイイとも思うが、勝手な自分なりの想像も、楽しい。
出来れば、その場の自分の浅い想像を、遙かに超える展開をしてほしい。
遙かに深く、遙かに緻密で、遙かに壮大な展開。その時に、凄いなと素直に感心出来る。
自分の小さな殻が粉々になり、そこからいろんなモノを吸収していける。
自分の世界と、相手の世界の融合が起きる。
受動的ではなく、参加型になれる。
主導権は、いずれ書き手の方に全て回る。最初だけでも、読み手に主導権があってもイイ。
ヒトが創ったモノは、ダレが主導権を持つべきか。
質の良いモノほど、作り手が主導権を持ち、その世界にドップリと浸かるコトになる。
でも、最初から最後まで作り手に主導権があるのでは、つまらない。
読み手が、ああだこうだ考えてくれるコトは、書き手にとっても嬉しいハズ。
創造物が、ただ消費されるモノではなく、シッカリと実になるコトを作り手は望んでいる。
作り手は、ともかく楽しんで欲しい。それだけで良い。
読書想像文は、楽しみ方。読むコトではなく、楽しむコトが目的とすると、それに沿うコトが出来る。自分と作り手の世界の融合。