えすかれーしょん

動いている。

脳は勝手に、動いている。

いろんな情報が飛び交う中で、無になるのは難しい。

入ってくる情報に、脳が勝手に反応し、イメージをしてしまう。

何も考えないようにと思っても、逆にいろんなイメージが湧き出て、無にはなれない。

興奮状態を落ち着けようと、無を求めてみるのだが、なかなか思うようにいってくれない。

コントロール出来るハズが、脳の活動は、制御できない。

何も考えない、無はそれほど難しい。

どうしたら、脳の活動を止められるだろう。脳が勝手にイメージするのを、やめさせられるだろう。

イメージをやめさせようとするほど、他のイメージが湧いて出てきてしまう。

そのイメージは消せても、次のイメージが出てくる。

空きがあると、すぐにイメージは浮き上がってきてしまうモノらしい。

どうやら、その脳の活動を停止させるというのは、無理がある。やっても無駄だと気づいた。

どうも無になると云うのは、脳のイメージを止めるコトではない。

では、どうすればイイのか。

脳は勝手に活動して、イメージとして絶えず映し出す。

それならば、そのイメージを気にしないコト。受け流すコトが、無になるコトなのかもしれない。

世の中は流れ、いろんな情報が感覚器を伝わり、脳に伝達される。その都度脳は、イメージを勝手に描いてしまう。

それは仕方ないコト。とするならば、気にしない。脳のイメージとの決別。

イメージが描き出されても、そこでシャットダウンする。

どんなイメージが入り込んできても、そこと感情とを結びつけない。興奮したり、落ち込んだりしない。

無というモノがあるとすれば、それしかない。

雑踏の中に居ても、それをシャットダウンできる能力。ちょっと想像しただけで、難しい。

座禅のような、静かな所で無になれるのは、当たり前。情報が極端に断たれている。

余計なモノが沢山入り込んでいく中での、無。果たしてそんなコトが、可能なのか。

入ってくる情報から、出てくるイメージ。それを見ている自分。

自分とイメージが近くにあるほど、気になってしょうがない。無とは、距離かもしれない。そう思えてきた。

脳のイメージは、自分だけのモノなので、当然一番良い場所に陣取って見ている。

コレが近すぎるので、自分が望まないイメージの影響も受けてしまい、感情をコントロール出来ない。

イメージを見ている、脳の中の自分の距離を、あけてみる。

脳は基本は暗闇。イメージのスクリーンから離れれば、無に限りなく近くなる。

少し距離が離れただけで、スクリーンに描かれたイメージの意味は分からなくなり、無になれる。

と同時に、意味が分からないコトへの、苛立ちも湧いてくる。不思議な感じ。

やってみると、不思議な感じがする。

やっぱり自分ですごく知りたい。すごく気にし過ぎている。分かってみると、自分がすごく求めている。

それで、いつでもイメージのスクリーンの真ん前に陣取って、少しも逃さないようにしている。

昔はよく親から、テレビから離れなさいと言われた。テレビの真ん前に陣取って、少しも逃さないようにしていた。

それと何も変わらない。テレビに近づきすぎる子供のように、気になって気になって、しょうがない状態だった。

普段はそれでも良いと思うが、意識的に距離を取るコトも、試みてみようと思う。

脳の中は、自由。距離は、ゼロであり無限。自分の中で、イメージのスクリーンとの、距離の概念をつくり行ったり来たりしてみる。

なるほど、それは現実社会との決別でもある。現実社会をシャットダウンする。

無になる。それは外界から、もしくは自分の記憶にある世界から、意識を隔離するコト。

どこまでも距離を離すコトは可能。ただ、外界からの情報も大切なので、適当に自分で調節する。

気にし過ぎていた自分も、イメージのスクリーンから距離を取るコトで、コントロール出来る。

距離をあけよう。距離を縮めよう。勝手に脳が作るイメージから、それを見ている自分との距離。

無は、距離。意識を、イメージから引き離す。不安にもなるが、そうなったらすぐ戻ればいい。まだまだ、自分の中の世界は深い。

-えすかれーしょん