つよきもの
滅ぶ時がくる。
その時は、弱き者の中から、世の中をつくる者が現れる。
強きモノというのは、変わるコトが出来ないヒト達。
居心地の良さと、実体験の少なさから、たじろぐのみ。
チカラあるモノは、現場を知らない。いつの間にやら、実体験から遠ざかり、情報だけ受ける存在になる。
チカラあるモノが弱ってきたら、弱き者が立ち上がらなければいけない。
もちろん弱き者の大半は、強きモノに依存し、現状に甘んじている者達。
もしもナニかを起こそうとすれば、彼らは敵になるコトはあっても、協力はしてくれない。
弱者の中から立ち上がる者がいたとしても、それは孤独な戦い。
誰かに甘えるコトなど出来ないし、損得で言えば損しかない。それでもやるのか?という問いを突きつけられる。
大半のヒトは、どんなに悪い状況になっても、現状を守る。
そのヒトたちと、望まない敵対関係になりながら、コトを進めなければいけない。
弱者の中から立ち上がり、次の世をつくる者が現れるべきだが、それはとても酷かもしれない。
それを覚悟して、冷静に、そして強かにコトを進めていく。
自分本意に動けば、強き者を倒そうとする。でも、それは求めていない。倒すコトが目的ではない。
やるべきコトは、新しい世の中を創出するコト。倒そうという興奮状態ではなく、冷静な実務。
では、実際今の日本で、次の世をつくる弱者はナニをすればいいのだろう。
凝り固まった保守的な日本の中では、あらゆるモノが潰され、あらゆるモノが育ってはいかない。
かなり不利な状況。それを踏まえて、やるべきコトを探し出す。
好条件はある。それは、このネットという新しいメディア。
とても自由で、世界と繋がっている。しかもお年寄りが、介入しづらい道具。
邪魔をするヒトは少ない。自由にできる。
自由に出来るが、あとは何をするかというコト。ハードルを上げすぎては、無理がある。
ネットの世界から、現実の世界へは、少しばかり隔たりがある。この隔たりはすぐには埋まらない。
それならば、埋めなくていい。ネットの中だけで、やりとりすればいい。現実化しなくていい。
つまりはウソの世界。ウソの世界を前提として、こうなればいいなという提案を重ねていく。
全てはウソの世界。お気楽に、好き勝手にウソを重ねて、新たな世界を構築していく。
ウソの世界といえど、気持ちは高揚していく。その高揚は追い風になる。
その風に乗って、現実化出来そうなモノを、現実化出来そうなヒトが、カタチにしていく。
それは日本でなくても構わない。どこの国のヒトがやろうが、現実になればいい。
ネットは世界に繋がっている。日本に固執するコトはない。
ダレがやってもいい。どうやってもいい。ウソの世界で暖めて、現実に映し出していく。
最初は、上手くいかない。構わない。ウソの世界。上手くいかないのも全部ウソの中に、放り込む。
出来なさそうなヒトは、手を降ろせば良いだけ。手を挙げているヒトが、挑戦する。
現実化となると、お金がかかるが、その段階に来たら戻ればいい。ウソの世界に。
ウソの世界に戻って、さらにどうするか、ウソを重ねていく。ウソの精度を上げ、お金の調達法のウソも、考える。
全てウソの中から、作る。壁に当たったら、ウソの世界に戻り、体勢を立て直す。
自分にとっては壁でも、他のヒトにとっては乗り越えられるかもしれない。せっかく繋がっているネットだから、1人でやろうとしない。
ウソはみんなでついて、みんなで育んでいく。吹き飛ばされて消えたとしても、ウソだからへっちゃら。
全て無くなっても、ウソだから瞬時に作れる。ウソは、鍛錬の場。共有して、精度を上げていく場。
強きモノは変われない。ウソの世界で精度を高め、鍛錬していく。ウソの可能性は、無限。