きじゅん
優れている。
それでも、生きていられたならば。
死んだ方がマシ。という状態が、自分の基準の中にある。
実際にその状態になった時、それでも生きていられるだろうか。
世の中には、自分が死んだ方がマシだと思う状態にいても、懸命に生きているヒトが居る。
単純な話で、そのヒトの方が優れている。
死んだ方がマシだと思うのは、その状態から逃げ、受け止めていないから。
どんな状態でも生き抜く。そう言えるヒトは、とても優れている。
私はといえば、やはり劣っている。自分の中に基準があり、その生き方を受け止められるかといえば、疑問になる。
おそらく、自分と違うモノとして、蔑視しているのだろうと思う。
いろんなモノを蔑視して、目を背け、逃げているように思う。その分が自分の劣っている点。
現実問題、少数派だが、厳しい状態でも生きているヒトは、沢山居る。
自分は、そこから目を背け、他人ゴトとして処理している。
少数派であるから、確率的にみれば、自分の身に降りかかるコトは少ない。
低い確率のモノを、気にしすぎるのも、健全とは言えない。
でも、実際に自分の身に降りかかった時、死にたいなどと言って、逃げようとするに違いない。
現状のこのカタチでないと、イケないと思っている。迷惑をかける状態を、恐れている。
死ぬというコトであれば、迷惑はそれ以上かけないで済む。自分の中にそれが強くある。
迷惑をかける状態への恐怖。そしてそんな状態への、蔑視。
ない交ぜとなって、自分の深い所で恐怖として蠢いている。
なぜそこまで、嫌うのだろう。なぜそこまで逃げようとするのだろう。
みんな迷惑をかけながら生きている。その中に入ればイイだけのコト。
おそらく、その輪の中に自分は、居ないと思っている。コレは自分から、その輪に入るコトを、拒んでいる。
拒むコトによって、自分が強くて価値のあるニンゲンだと、誇示している。
さらにそれは、蔑視にも繋がる。輪の中のヒトも蔑視して、自分は特別だなどと思っている。
私の中の闇。肩肘張って、拒絶しながら生きてきた。表面には見せないモノの、奥底にはそれが強く流れる。
ただ劣っているだけなのに。それが優れていると、勘違いしている。
それはとても表面的なモノ。もっと自分の深い所で、違うナニかが存在している。
それは、どんな状態になっても裏切らないモノ。評価を変えるコトなどしないモノ。
それは一体何だろう。自分の内奥に感じるそれとは。
おそらく、どんな状態になったとしても、自分を愛してくれる存在。なので当然生きていてイイ。
それは、物言わぬ沢山のモノ達でもある。とても分かりづらいが、自分と繋がり、大切に思ってくれている。
そういうモノが、深い所で存在している。それに包まれるように、みんな生きている。
あとは自分がお返しをする番。拒絶ではなく、自分の方から愛する。存在を喜ぶ。
そうすれば、輪の中にも入れる。どうやら君臨しようとしていた。それで拒絶し、蔑視してしまっていた。
自分が愛する、他者の存在を喜ぶというコトをしてこなかった。
見えるモノも見えないモノも、いろんなモノが自分を愛してくれている。自分もそれをするだけでいい。
どんな状態になっても、愛される。喜ばれる。
愛されるというのは、表面的な状態だけで、変化はしない。もっと深い部分から、歓迎されている。
それは無差別で、全てのモノに、全てのモノから、ネットワークのように伸びている。
死にたくなるような状態、迷惑をかけるような状態になったとしても、深い所で歓迎されている。
私が気にしていたのは、とても表面的なコト。その表面の中での、拒絶、蔑視、君臨、誇示。
分かってみれば、とてもマヌケ。浅い所に、囚われすぎていた。
この世界は、ヒトだけの浅いモノじゃない。現在だけの浅いモノでもない。
見えるモノ達に囲まれ、見えないモノ達にも囲まれ、太古からのモノ達にも囲まれている世界。
みんな歓迎されている。どんな状態でも、どんな境遇でも。だから生きて、生き抜く。
そして、愛して自分も歓迎する。浅い所ではなく、もっと深い所で。
自分の中の闇が晴れた。出来るかどうか分からないが、君臨しようとする 意志は、今日で捨てようと思う。
コレも出来るかどうか分からないが、深い所で愛すると、歓迎するをしてみようと思う。
基準は、表面。もっと広い世界があり、そこではあらゆるモノの存在が、歓迎されている。闇の正体は、君臨だった。