どこまで
明確でないと、迷う。
教える側も、教わる側も共有したい。
今日はどこまで身につけるのか。そこが曖昧だと、混乱する。
学ぶ側はいつでも、まだ身についていないのを、自覚している。
その時に、それでイイのか、それではイケないのかの確認は、絶対に欲しい。
教える方は楽をしたい。
一度教えれば、全部身についていると思いたい。そこに、双方の思惑の差が出てくる。
学んでいる側の身につける能力は、一様ではない。
得意不得意があり、身につけるスピードもマチマチ。コレを教える側は、考慮に入れておく必要がある。
自分を振り返っても、得意なモノと不得意なモノはあったハズ。ならば身につけるバラツキも、実感として理解可能なハズ。
そのバラツキを考えるならば、教える量は区切っていくべき。
確実に身につけさせれば、教える回数は一回で済む。
一回で済ませたいなら、量は減らす。欲張りすぎても、学ぶ側は消化出来ない。
量が増えれば増えるほど、身につけられるヒトは減っていく。
どこまでを、欲張るほどに理解度も下がり、曖昧になってしまう。
量を少なくし、学ぶ側に立って教えていくのが、一回で済ませられる方法。
つまりバラツキの中で、一番身につきにくいヒトに合わせていく。それが確実。
教えるヒトは、教えるという仕事の中で、量を減らし学ぶ側の目線を持つというのは、考えていなかったと思う。
教えるという行為だけに囚われて、身につけているかどうかは、曖昧なままにしてしまったように思う。
教える側の仕事は、どこまで短く区切り、的確に身につけさせるのかが、本来あるべき。
現状はそれがないので曖昧。
さらには、教えるモノ自体の分析も、する必要がある。
教える側自体が、教えるモノの本質を知らないまま、教えても曖昧になるだけ。
教えるモノ自体を分析し、整理し、必要ならば補足し、より消化しやすいように料理していく。
そうすれば学ぶ側は、味わいながら消化し、シッカリと身につけていける。
教えるというのは、教師に限ったコトではない。誰でも、教える立場になる可能性はある。
その時に困らない為に、教え方というのも、知っていて損はない。
教える時は短く区切り、分析し、整理し、補足し、学ぶ側の目線で、消化しやすいように料理する。
それで、教える回数は、一度で済むようになる。それが最短のやり方。
どこまでは、区切り。教える側は、学ぶ側に立ち、消化しやすいように料理する。それが教える側と学ぶ側の、ギャップを埋めるやり方。