ほりおこす
おとといと昨日の続き。
ペッタンコの感じる世界。
ペッタンコの感じる世界を、掘り起こしてみる。(おとといと昨日のブログは必読で)
感じる世界は、太古からの記憶だと私は定義づけた。
太古からの記憶が、自分の中にも刻まれ、それを”なんとなく”で感じている。
たしか、共感というのも、経験の記憶が影響していた。どうも感じるというのは、記憶と関係しているみたい。
この記憶というのは、なんだろう。記憶は、時間を越えるモノ。
過去の行動を記憶し、現在に再び呼び起こさせてくれる。
時間が存在するから、記憶も存在する。そして、その時に自分がそこに存在したコトを、証明してくれる。
もしも記憶がなければ、過去において自分がどこに居たのか、何をしていたのか分からなくなる。
自分が存在した証しが、記憶のおかげで、確実になる。
おそらく、原始からの生命の記憶も、彼らが存在した証しとして刻まれているのだと思う。
ではなぜ、それは”なんとなく”なのか。もっとハッキリしたカタチではないのだろう。
感じる世界は、ペッタンコ。永遠の広がりを見せるが、とてもおぼろげなモノ。
本来永遠など存在しない。無限というのもあり得ない。
無限に何かがあれば、どんなに小さいモノでも、埋め尽くされてしまう。全ては有限。
ただ、ゼロの要素を入れれば、無限もあり得る。
どんなにモノが多くあっても、実際には存在しないゼロの要素。コレを入れるコトで、可能になる。
太古からの記憶の量。生命が存在していた証しは、あまりにも膨大。さらにそれはこれからも増えていく。
とすれば、明確に存在させてしまうと、入りきらない。
存在しないモノというゼロの要素にしてしまう。それによって、膨大な太古からの記憶も刻めるようになる。
明確な思考とは違うので、”なんとなく”で、ハッキリとはしないモノにはなる。
でもそれにより、太古からの記憶や、これからの膨大な生命の記憶を刻めるようになる。
それで感じる世界は、永遠を手に入れる。
ではなぜ、感じる世界と記憶は結びつくのか。これは、経験則。ただし、明確ではない。
“なんとなく”こっちのような気がする。”なんとなく”そう感じる。
知っていれば、経験則でそちらを選ぶ。でも知っているワケではない。と思わせるが、本当は知っている。
明確ではないが、太古からの記憶の経験則が、教えてくれる。
ヒトは頭で考える。それだけに、明確でない感じる世界は、眠らされるコトになる。
おそらくヒトの中には、眠っている能力が沢山ある。保障はないが、”なんとなく”そう言える。
目を閉じれば、暗闇が広がる。暗闇に隔たりや障壁はなく、永遠に続いていく。
明確な光の世界。自分という個。それだけでもいい。でも、”なんとなく”の永遠の世界も、実は近くに広がっている。
共感する他者との繋がりも、太古からの経験と記憶による。感じる世界は、心という袋に納められている。
心は個を越えた存在。心のままにとは、個ではなく感じる世界に意識を向けろと、そういうコト。
日々の生活。そのひとつひとつが、ほんの僅かの記憶として、次の世代に伝わっていく。
自分が存在した証しも、あとの世代に伝わるハズ。永遠の記憶として。感じる世界の中で。
掘り起こすは、心。心という入れモノの中に、個を越える永遠の世界が、広がっている。なので逆に、日々の生活は、何より大事。