どこに
毎度おなじみ、昨日の補足。
自分の個からの解放。
どこにあるのだろう。自分という個から、解放される場所。
自分の心の中は、自分で満たされる。
自分の色がつき、自分の解釈が支配し、自分にとって大切なモノで成り立っている。
でも、昨日のブログで書いたように、さらに深い所まで行くと、自分という個から解放される。
個から解放され、もっと他と繋がる、共有の世界が広がっている。
それが心の土台として、深く根を張っているのだけれど、果たしてそれはどこから来るのか。
注目したいのは、脳の構成と、受精からの胎児。
発生の過程において、魚類から両生類、原始爬虫類のような形成を、胎児は見せる。
脳も、爬虫類脳、旧ほ乳類脳、新ほ乳類脳と、重ねられるように構成されている。
現在や未来の為に、そうなっているとも言えるが、過去からの記憶を持っているとも、言えなくもない。
進化は過去を切り捨てて成り立っているのではなく、過去の上に新たなモノを加えて、成り立っている。
とするならば、更なる過去の記憶も、引き継いでいるかもしれない。
自分という個が存在するのは、生きるというテーマがあるから。
自分という個の認識は、かなり幅があると思うが、生命全てが持っていると考える。
ならば、個からの解放は、生命以前。生命以前の記憶が刻まれていると、考える。
生命でないモノに、記憶はあるのだろうか。
それは正直分からない。でも、最初の方の生物は、個という概念も、必要なかったとも思える。
生存権に対して、生存するモノが少なければ、他を考える必要はない。おのずと自分を考える必要もない。
生存するモノが多くなって、生存権の争いが出てくると、自分が生きたいという当然の欲求が出てくる。
それが他を意識させ、自分という個を作るコトになる。
とすると、個から解放されるのは、最初の生物たちの記憶。
個を意識せざるを得なくなったのは、大きな分かれ道で、生命にとってとてもイヤな選択肢だったのかもしれない。
でも生き残るのは、個を意識するモノのみ。
共有する世界は深い所に眠らせられ、意識は自分の解釈が満たすようになった。
なので、自分という個から解放されるのは、とても難しいコト。
無限ループという不安定なトルネードの運動で、かなり深い所まで探さなければ出てこない。
でも、それは意識や思考での話。感じてはいる。
感じる世界では、構造体はない。全てがフラットで、すぐそこに存在する。
意識や思考ではないので、理解は出来ない。でも、感じるコトは出来る。すぐそこにあるから。
古代からの記憶であっても、すぐそこにあって感じられる。
感じる世界が、無限で永遠と思わせる。感じる世界は、思考や意識とは別のルール。
とんでも無い先祖からの長い記憶を、ペッタンコにして、”なんとなく”というカタチで教えてくれる。
感じる世界が、自己から解放された、他者との共有する古代の記憶。
積み重ねられた思考と、ペッタンコで無限の広がりを持つ感じる世界。
その両方で、私たちは生きている。双方をやり取りしながら、ヒトは生きている。
感じる世界は、まだまだ広がる。掘り起こす価値はある。それはまたいずれ。
どこには、大昔。決して忘れていない。先祖達の記憶は、深い所に刻まれている。私たちは、彼らに守られている。愛されている。