じっかん
不思議と同じ。
変化に伴っては、変化しない。
自分という実感は、自分がどんなに変わっても、同じでいる。
周りの環境も、自分自身も、大いに変化する。
それでも、自分が感じる実感は、そのまま。
子供の頃遊んだ公園。大人になって行くと、全てがとても小さい。感覚とズレている。
自分に伴って想い出は変化しない。自分の丈が大きくなって、相対的に公園は小さくなる。
でも、実感は修正されず、ズレを生む。
自分がどんなに変化しても、自分の実感は変わらない。とすると、補わなければならない。
いろんな役割を、しないとイケない。その時にそれに合わせて、足りない部分を補う必要がある。
演じていかないとイケない。求められるので、それを演じる。
自分を作って、自分をも欺いていく。
それぞれみんな自分が居て、演じているもう一人もいる。
見ているのは、演じている方。求められる役割を演じている方と接している。
みんな努力してる。
なぜならば自分というのは、何とも危うい。案外、ひ弱。
にも関わらず、求められる者を演じきるのは、隠された努力と覚悟がある証拠。
まだ公園がとても大きかった時と、まるで変わっていない。
それでもその都度その都度、求められるモノを演じきる。
たじろぐが、まわりを見ても、自分を見ても、どうも逃げる訳にはいかないらしい。
仕方なく、切羽詰まってやってみる。上手くはいかないが、その内それなりには成れる。
そこで、自分はそういうモノなのかなと、修正していく。
その都度その都度の、自分の確認。意識的にしろ、無意識にしろ、誰でも行っている行為。
自分の実感は同じなので、演じている方を、いつでも確認しないとイケない。
いつまでも、大きな公園では許されない。
確認や努力を怠ると、本来の自分に戻ってしまう。死ぬまで、確認と努力が必要になる。
演じている量や大きさが、そのヒトが生きてきた、価値のように思う。
みんな大したコトはない。そこから始まって、様々な役目を渡り歩く。確認しながら、欺きながら。
実感は不変。求められて、追い詰められて、それに応える為に演じていく。努力し続けるコトが、生きるコト。