ありがたや
まるで、かなわぬモノ。
上と下を求める大流に対して、すげぇは立ち向かわねばならない。
ありがたやという言葉を選ぶ。これは単純で的確だから。
上や下を求める大流は、見くだし安心する行為。
これに対してすげぇは、自分とそれ以外のすべてを尊重する行為。
ありがたやという言葉は、見くだしてしまう大流にも屈せず、尊重を貫き通せる。
使い古された言葉だけれども、かなり有効に働くように思う。
上や下という、比べて脳が処理するシステムは、沢山のないがしろを発生させてしまう。
ないがしろにされた者達も、ないがしろにした方も、実はあまり居心地は良くはない。
それは、本当の姿ではないから。かなり無理をしているから。
ないがしろにされた者は、不利益を被りながら生きていく。ないがしろにした方も、一定の快楽はあるが、そこには違和感もある。
違和感を感じながら、薄っぺらい快楽を楽しむコトになる。
すべてを手にしたとしても、本当にこんなモノが欲しかったのかという、疑いからくる違和感。
実際そんな薄っぺらい快楽は、求めていない。あくまで数字の誤用による、脳の処理のミス。
本当の姿、求めるモノは他にある。その本当に求めるモノを手に入れる為に、ありがたやを使う。
すべてのモノに対し、ありがたやという言葉をかけるだけで、ないがしろにされていた者達の尊厳が回復出来る。
その行為は、自分の尊厳の回復にも繋がる。尊厳が回復出来たら、それぞれすげぇという考えまでは、簡単。
難しいのは、ないがしろにしてしまう大流を、尊厳の流れに変えるコト。そこが肝になる。
ただ、実を言うと全てを変えようというのではない。
数字で順位を付け、肩書きで処理をするのは、誤用であるが良い部分も存在する。
数字で上や下をつくるのは、まやかしの世界であるが、もしもそれで良いというなら、良い効用もある。
順位が付けられ、上下が出来る。数字で比べやすくなった段階で、モノとして扱われる。
モノとして、支配されるコトになる。良い物は残り、ダメな物は残酷に処分される。
モノ化というのは、商品化。自分を商品として、より良いモノを目指すというのであれば、上や下もアリ。
自分が納得しているならば、高みを目指して、その残酷な世界に身を置いても良い。
とは言っても、それはあくまで自分自身だけ。そして納得しているヒトのあいだでのみ有効。
あらゆるヒトを巻き込んでしまうのは、やはり誤用で、迷惑な話。
そして、他人にまで強要するのも間違い。あくまで自分を商品化する納得のモトで、成立する話。
基本は尊厳。そして、それぞれがすげえという、本来の姿に戻すコト。
ありがたやは、尊厳。商品化の納得を例外として、上や下と考えるのは間違い。これは、他人や自分の取扱説明書。