ちとであう
自分の中から、生み出した答え。
それが何千年前のヒトが、すでに出していたりする。
知と出逢うコトがある。そこで何千年前のヒトも同じコトを考えていたと知る。
私は、幸か不幸かあまり知を持たずに、今まで生きてきた。
知というモノに、違和感を持っていたし、知を得る行為も得意ではなかった。
自らの考えで、答えを探すコトに価値を感じ、今までやってきた。
それが最近知と出逢うようになって、思うコトがある。
知識は正面から得るモノ。でも同じ考えというのは、同じ方向を向いている。
同じ根から生えている。でも知は、途中から。
それでは見えないコトもある。
たとえば、何千年前のヒトが、答えまで辿りついているコトもある。でも、途中で済ませてしまっている場合もある。
答えまで辿りつかずに、中途半端で答えとしてしまっている。
その場合、それを学んだ次のヒトが、修正して答えまで辿りついてくれればいい。
でも、そうはならない。
途中のまま、そのまま引き継がれる。それは何千年も変わらず受け継がれてしまう。
知というのは、学びとも言える。
この学びの多くは、○×がつき、点数が付く。
○×が付いた段階で、絶対のモノになり、固定される。
途中の段階でも、絶対のモノになってしまう。それが学びの落とし穴。
本来は、修正されるモノ。修正は、先人に対しての敬意。
盲目的に受け止めてしまうのは、先人を尊重するコトにはならない。
何千前のヒトと同じ方向を向いて、分かるコトがある。修正しないのは、学びの大罪だと。
知への冒涜は、覆すコトではなく、盲目的に受け止めてしまうコト。
知と出逢うは、同じ方向。学びは、いつでも修正される運命を、覚悟しないとイケない。ホンモノの知は、誰からの批判も受けて立つ。