ふようしこう
自分なんて要らない。
そう思うコトで、何を得ているのだろう。
自分なんて、この世の中に要らない。その不要思考で、何を得ているのだろう。
私もその一人。確かに生きている。でも、同時に要らないのではないかと、思い続けても生きてきた。
それがごく最近、間違っているのではと迷いだしている。
その狭間の中で、不要思考で何を得ているのか、そう思ってしまう理由も同時に探ってみたい。
自分が不要と思うコトで、心は閉ざされ、守りに入る。
交流を極力控え、自分の行動を制限し、遠慮気味に生きる。
もともと交流を避けるので、裏切られるというコトもなくなる。
信じたり、頼ったり、甘えるというコトもしないので、それが裏切られもしない。それで不要と思うようにしている。
不要思考というのは、自分が致命的なダメージを受けない為の、防御姿勢。
得ると言うよりも、失わない傷つかない為の行為。
ただ、不要思考は不健全。その思考に慣れてしまい、生きる活力が剥がれてしまう。
冷静に見ていけば、不要なヒトは存在していない。自分も充分必要とされている。
にも関わらず、不要思考が染みついて、拭えなくなっている。
一度不要思考が身につくと、自分はそういうニンゲンだという自分に付けたレッテルのまま、生きようとする。
そのレッテルを剥がし、自分が必要だと思考するのは、結構苦労する。
自分が必要だと考えても良いのだろうかと、自問する。とても臆病で、怖がっている。
間違いない、自分は必要。他の誰もが必要。
自分がもしも拒絶されたならば、それは存在ではなくて、自分の行い。
自分の存在が否定されてはいない。
もしも存在を相手が否定したなら、それはその相手が幼かっただけのコト。
年齢は関係ない。受け入れるだけの成熟度がなく、否定してしまったというだけ。
その否定というのも行為。これは努力で改めないと、ヒトを不快にする。不要思考を増やしてしまう。
行為は否定されて当然。でも、存在は否定してはイケない。
改めるべきは行為で、存在は改める必要はない。
自分も、誰しも、存在は否定されない。なので、自分が不要だと思考するのは大間違い。
ただ、ヒトを否定し排除する幼い行為は不要なので、自分の中から取り除かなければイケない。
ダメな行為は受け入れられない。存在は誰であっても受け入れられる。
そこが混ざってしまう為に起こるのが、不要思考。
自分の行為が問題の場合でも起こるし、受け入れる成熟さが相手にない場合にも起こる。
少なくとも、存在に限っては相手も自分も、否定されるべきではない。
僕らはみんな生きている。生きているその中で、改めるべきは行為。
存在と行為がゴッチャになっているのを、切り分ける。自分は必要。そう思えれば、あたたかい安らぎを取り戻せる。
不要思考は誤解。してはイケないのが、存在の否定。行為の否定はしてもイイ。本日をもって、心の防御を完全に解く。