たいわ
それは頭の中。
出し合っていくコト。
対話は、お互いの頭の中にある考えを、出し合うやり方。
頭の中の考えは、本人以外見るコトは出来ない。
そこで口を使って、音声として頭の中の考えを、他のヒトに伝えていく。
確かにそれで、自分だけだった考えが、他のヒトと共有出来る。
ただ、問題は言葉として出す時に、頭の中のまま出しても分かりづらいというコト。
さらには、遠慮してしまって、言いたいコトが言えない可能性があるコト。
そして、ヒトによっては、まるで受け止めてくれないというコト。対話というのは、案外厄介な存在。
立場や雰囲気によっても、言い易くなったり、言いづらくなったりする。
考えがなければいいが、考えがあるのに出せない場合もある。
音声による言葉というのは、その場で確かめられるが、そのライブ性から上手なヒトと下手なヒトが出てしまう。
その点、ネットの書き込みなども、頭の中の考えをやり取り出来るので、対話と言っても差し支えない。
音声の対話と違い、ライブ性は薄いので、冷静に考えて自分の考えが伝えられる。
それだけに、対等な立場で対話が可能になる。
そのハズなのだが、匿名でリスクが少ない所為もあって、悪口などを書き込まれたりもする。
どうして、ネットでは悪口になるのだろう。
ネットの書き込みの場合、本来とても冷静に対話が出来る。
でも、その本人のその時の気持ちも、同時に出てしまう。
本人の私生活からくる、鬱屈とした不満のはけ口として、その書き込みに現れてしまう。
はけ口なので、対話をしようという思いは、最初からないと言い換えられる。
対話とは、頭の中の考えを伝え逢うコト。
双方が共通の目的を持って、伝えあった場合、それなりに先に進む。
それは共通の目的が範囲となって、そこからはみ出す考えを切り捨てるから。
ネットの場合でも、テーマから外れる部分を排除してしまえば、悪口のやり合いも防げる。
対話というのは、自由すぎても破綻してしまうというコト、なのかもしれない。
本来ダレにも分かるコトのない、頭の中の考え。それを表に出し合うのが対話。
他のヒトに知って貰って、何を求めるのか。
少なくとも、その対話の中に居るヒトには、情報として伝わっている。
その対話の中で有効にならなくても、実はその考えは残っている。
その場では役に立たなくても、お持ち帰りされ、ゆっくり消化されてゆく。
とすると、どんな考えだろうと、実になっている。長期的に考えれば、役に立っている。
少し対話の有効性を、短期で考えすぎていたのかもしれない。長期でみれば、あらゆる要素が役に立っている。
対話は保存されている。消化されるまで、掛かる時間はそれぞれ違う。結果を、急ぎすぎていたのかもしれない。