ちょうじり
動きたがる。
同時に、動きたくは無いとも思う。
帳尻は合わせられる。どちらか片方に動けば、反対の方にも行きたくなる。
体が健康で、時間があれば、どこかに行きたくなる。何かをしたくなる。
カラダがそう、せっついてくる。
にも関わらず、どこかで動きたくないという思いもよぎる。
真逆の思いが湧き上がるこの現象は、どういうコトだろう。
まるで天秤のように揺れている。
自分の思いが、一つではなくいつでも揺れるようになっている。
一方に動こうとすれば、真逆の思いも用意されていく。
そういうシステムになっているように思う。
両方の道があって、選択が出来る。
もしも一方だけなら、それに従うだけ。つまりは従属的になる。
それが自分のカラダからの欲求であっても、一方だけならソレに従っているコトになる。
ヒトの行動は、主体的でないとイケない。主体的でなければ、無責任になる。
人生に無責任では、そのヒトの人生と言えなくなってしまう。
カラダはそのヒトの意志で自由に動き、そのヒトの考えでどうとでも行動が可能。
その条件下で、そのヒトの人生と言える。そのヒトが主体的に、生きていると言える。
ならば、真逆に選択肢が用意されるのも、当然かもしれない。
自分の中で、そちらに動いている。自らでそちらを選んだというコトが、無意識といえども記憶される。
選択肢が用意されるコトで、主体的に生きている帳尻がつく。
もっと大きな決断では、さらに迷うに様にも出来ている。それも主体的。つまり自分で決めたという納得の裏付けになる。
帳尻の為、用意される。ヒトは主体的に生きて、そのヒトの人生になる。いつでも選んでいる。