おうじたい
求められる。
断るコトも出来るハズ。
求めに対して、応じたいと思うのは、純粋だろうか。
それとも、ただ断るのが苦手なだけなのだろうか。
ヒトから何かを求められるというのは、負担であり、喜び。
負担でもあるが、なぜか喜びも含まれている。
応じたいのは、その喜びの為。
求められているコトは、自分の存在を必要としてくれている証明。
それにより自分の存在は、肯定される。
肯定されるので応じたい。
ただ、それが常態化し、義務的に変わりだしたあたりから、意味合いは違ってくる。
応じるモノだと思われ、まるでモノのように扱われる。
モノとして扱われては、自分の肯定にはならない。
逆に自分の存在を、軽んじられている。これでは、応じるコトに喜びは感じない。
求められても、応じるコト自体が、苦痛になっていくだけ。
ヒトが自分の為に行動してくれるというのは、特別なコト。特別でなくてはならない。
常態化は、その意味合いを変えてしまう。それは区切りなく、いつの間にかそうなってしまうモノ。
ただの行動なので、そこに悪気はない。
でも、行動のウラ側に、いろんな心情は含まれている。行動以上の、意味がそこに隠されている。
最初、求めてそれに応じてもらえた時、求めた方はありがたいと思ったろうし、応じた方は自分の存在の肯定が得られたと思う。
その感謝と喜びは、最初が一番強く、常態化する毎に弱まっていく。
求める側は、いつでも感謝をし続け、特別にしなければイケない。
当然と思ってしまうと、応じてくれている人の想いを、踏みにじるコトになる。
いつでも喜びを感じてもらえるように、感謝で包んで特別にする必要がある。
ヒトが自分の為にしてくれること全て、当然ではなく、特別。
応じたいのは、喜びのため。存在が肯定される意味合いが、隠れている。アナタは特別。全てのヒトは特別。