えすかれーしょん

せんしゅ

せんしゅ

得意とするモノが、集ってくる。

とても比べたがるので、勝敗をつけるコトになる。

選手というのは、選りすぐられた存在。誰でもではなく、その段階で特別。

得意なモノで、そのヒトたちは自分が一番優れていると思っている。

一番というのが、何人もいては、成立しない。

そこで比べるというカタチをとる。同じ条件で、納得出来る方法で、そのチカラを比べていく。

オリンピックなどは、その典型例。世界中から同じ条件で、誰が優れているかを決めていく。

世界一を目指して、参加する。参加出来るのは、国の代表と言うコトで、選ばれたヒト達となる。

選ばれなかったヒト達は、選ばれたヒトに思いを託す。

選手というモノは、誰かの代わりという意味合いも、含まれる。

大勢の人の代わりに、チカラを出し切って勝ちに行く。

さて、選手は自分が優れていると思っているので、比べるのは構わない。

では、得意でないコトを比べるのはどうだろうか。それに何の意味があるだろうか。

もしも、世の中の全員を比べて、優劣をつけるとすると、それに意味はあるだろうか。

選ばれたヒトは、誰かの代わりという側面も持つ。でも、全員となると、他の誰の為というワケでもない。

さらには、一番だと主張してもいない。その分野に関しては、劣っているコトを自覚もしている。

その上で、比べて順位をつけるコトに、意味はあるのだろうか。

現在の世の中では、なぜかよくあるコト。学校などでは、日常的に行われている、比べるという方法。

競争や、勝敗は、誰の為に必要なのだろう。

選手ならば、そのヒトに託すや、一番を目指すという分かりやすい理由がある。

では選手以外のヒトの競争は、必要あるのだろうか。

競争は、お互いを高める為にあるモノ。更なる高みを目指していく。

そう考えると、選手でなくても、競争するコトは良いモノのように思える。

ただそれはあくまでも、一定の基準を超えてからが前提。

越えていないのならば、まずはその基準に達するコトを目的に、励む必要がある。

基準までは、道筋が決まっている。そこでは競争よりも、こなすコトが必須となる。

こなして、基準を超えてから、はじめて高みを目指す競争の領域に入る。そこは選手の領域。

やはり、選手以外が比べられるのは、おかしい。まだその段階ではない。

勝敗ではなく、黙々とこなしていく段階。

やはり、選手以外に競争させるのには、無理がある。そこに違和感を感じたのも、当然な気がする。

選手は、託されるべき特別な存在。競争は、基準を超えてから意味がある。基準に達する前に競争させれば、それはただの嫌がらせ。

-えすかれーしょん