れきしじょう
空想の中のよう。
実在したと分かってはいる。
歴史上の人物というのは、同じ人間だという感覚を持てない。
歴史は歴史で、今を生きている自分と、同じだとは到底思えない。
それが、歴史上と言って良い時代に書かれたモノを見て、全く今と変わらないと愕然とするコトがある。
歴史上という枠の中に収まっていた存在が、突然身近になる。
同じようなコトで悩み、そこで藻掻いている姿。時代も環境も違うはずが、苦しみは現代とさして変わらない。
歴史上という言葉がついた途端、それはヒトではなく、ただの情報。
その情報が、突然自分と同じニンゲンに様変わりする。
どうしてお勉強の歴史では、同じニンゲンであるという感覚が、ないのだろう。
ただの情報に、なってしまうのだろう。少しそこを当たってみたい。
歴史のお勉強として出てくる人物は、同じニンゲンだという感じをさせてくれない。
時代や環境が違い、まるで別物だと思わせる。
同じニンゲンだと思わせるには、決定的にナニかが足りないように思う。
逆にそれを付加するコトが出来れば、歴史上の人物も、自分と同じに思えると言える。
自分と変わらないと思える時、それはどんな要素だろう。余計なモノを削ぎ落として、精製していく。
それは、今の生活にも当てはまる共通点。その中でも、より強いのは”苦悩”。
現代とまるで違わない苦悩を、認識出来る時、同じニンゲンだと思わせてくれる。
歴史のお勉強では、成功か死だけが描かれる。そのイベントだけが、年号と共に並び立てられる。
あとは当時のシステムや、人間関係の説明がつくだけ。
そこに当時のヒトの苦悩というのは、説明されるコトはない。そこがスッポリと抜け落ちている。
重要な要素が抜け落ちているコトで、同じニンゲンだと思えなくさせている。
ただの情報に、成り下がっている。
その時代その時代で、またはそれぞれの立場で、ヒトは苦悩しヒトとして生きている。
同じニンゲンだという感覚は、歴史を学ぶ上で一番重要に思う。
それがスッポリ抜けている。これでは、ただの情報の暗記になっても仕方がない。
歴史は情報ではなく、ヒトが積み上げてきた、生き様。
出来れば苦悩を付加して、ニンゲンに様変わりさせたい。
歴史上とは、生き様の情報化。苦悩をふりかけて、ヒトに戻したい。それで蘇るものは、ぬくもり。