わたしは
自分は、いけない気がする。
自分の存在が、ダメな気がする。
私はをつけて、自分の存在を肯定してあげる。
私は、をつければ、他のヒトがどう思おうが関係なくなる。
他のヒトがどう思っても、自分がそう思っているのだから、他のヒトもそれ以上踏み込めない。
”私は”は、自分の領域に限定して、自分のルール、価値観で、そこの空間に風穴を空ける行為。
“私は”はの後は、自分を肯定してあげる言葉を続ける。そして、そう考えるで結ぶ。
ヒトの数だけ、それぞれの私が存在する。
にもかかわらず、みんなまわりを見て、それに合わせようとする。
「私は、今の自分でイイと考える。」そう言えばいい。
実際、自分のままでいい。特に世の中的に、認められないような自分程、肯定したい。
反社会的なコトは別として、世の中に否定される境遇でも、私はで領域をつくってから、自分を肯定してあげたい。
世の中と言っても、揺れている個人のかたまり。決して、強固なモノではなく、とても脆い存在。
”私は”は絶対防御。その中で、自分の肯定。肯定は、世の中で自分の居場所の確保になる。
居場所は勝ち取るモノ。みんな揺れている。自分は自分でイイ。”私は”は、それを勝ち取っていく、見えない置き駒。