みとめられたい
みんなそう。
みんなそう思っている。
みんな、認められたいと思っている。
でも、あまりヒトは自分を認めてくれない。それはどうしてだろう。
認めてくれるハズのヒトが、ヒトから認められたいと思っているから。
そのヒトも、ヒトから認められたいと、思っているから。それで、誰からも認められない。
この国には、ヒトを認めるという習慣が、不足している。絶対的に足りない。
もっと認められてイイが、認められたいばかりで、ヒトを認めようとしない。
ヒトを認めようにも、何を認めればいいのか分からない。
基準として、お金を稼ぐ能力を持てば、認められる。どんなコトでも、お金さえ稼げれば、良しとされる。
この国のヒトは、それほどお金が好きなのかと言えば、そうとは思えない。
ただ、どういう基準で認めればいいのか分からないので、ハッキリと形に表れるモノに、なびいてしまうのだと思う。
何をどう認めればいいのか、学校では教えてはくれない。
なので、誰も認めると言うコトが出来ない。学校で教わらないモノは、大いに欠けたまま、大人になってしまう。
大人になって、でもヒトに認められたい。それでこの国は、認められたいヒトばかりの集まりになっていく。
まずは流れを、修正しなくてはいけない。みんなそれぞれ素晴らしい能力がある。
そこをスタートラインに、しなくてはいけない。それぞれに素晴らしいが、スタートになるように修正する。
あとは、いろんな変わった所、それを認めればいい。その変わった所こそ、そのヒトの能力。
もちろん、悪い形で表れるコトもある。そこは否定してイイ。悪い部分だけ否定し、良い方に向かうようにうながしていく。
ヒトを肯定して、そちらの方向に進んだ時、もしも悪い結果が出たらどうしよう・・・・・。
そんなコトを考えて、あまり肯定できないヒトがいる。
真に受けるかどうかは、自分にかかっている。その結果悪い形になっても、それは自分の責任。
もしもそれでヒトを恨むようなら、それはそのヒトの未熟さ。それを恐れてヒトを肯定しないのは、臆病すぎる。
無責任でいたいのなら、無責任でイイ。ヒトを認めても、その責任は負わなくてイイ。
あとは、そのヒトが勝手に生きていく。それでうまくいっても、何の謝礼もくれない。それでいい。
ともかくヒトは認められたい。その欲求を満たしてあげるのだから、それだけでイイ。
それぞれの素晴らしいトコロを、認めてあげればいい。日本人は、考え過ぎなのかもしれない。
認めるという行為が、少なすぎる。そしていろんな能力があるコトを、知らなすぎる。それでいろんな能力は、余計として処理されてしまう。とてもモッタイ無いコト。
みんな認められたい。その欲求でこの国はうごめいている。その能力は、素晴らしい、とても素敵、とてもユニークという言葉で救われる。この言葉が少なすぎる。認められたいなら、自分が認めるコト。いずれそれは伝染して、大きな流れになるハズ。