じゆうけんきゅう
困難。
おそらく大人でも困難。
夏休みの自由研究という宿題は、大人でも困難な代物と思う。
どうしてこれほど、困難なモノなのだろうか。
まず、何をしてイイのか分からないというのがある。
これは、何をやっても自由で、自由すぎるから分からないというモノとは、思えない。
何をやっても良いわけではない。それは、チェックする人間がそうさせる。その人間によって、狭められる。
その人間というのが、教師。この存在が、実は相当困難にさせる。
どんなに素晴らしいモノでも、この人間が認めなければ、良い反応は得られない。
その教師の意地悪さによって、実は難易度も、幅の狭さも決まってくる。
夏休みの宿題と言っても、結局教師の考えにより、歪められている。これは困難を作り、自由研究自体も本来の姿ではなくしている。
夏休みの宿題を出さないという選択もある。ただ、ほとんどの教師はこれは出来ない。
出さないという選択肢は、生徒や児童を信用していないと出来ない。結局、信用できない分を、宿題で埋めている。
困難なコトをやらせるコトで、怠けさせないようにしている。最初から疑ってかかっていると言える。
それだけに、自由研究でも、簡単に出来そうなモノは認めない傾向にある。苦労して作ったモノだけを、良しとする傾向にある。
とすると、その段階で自由研究ではない。自由研究ではないモノを、自由研究と名付けている。
基準も曖昧で、簡単そうに作れても、その教師が面白いと思えば、それを良しとしてしまう。
これでは、何をしたらいいのか、分からなくなっても仕方がない。
そんな意地悪な教師が出す、自由研究と言われる別物はだいたいの場合、結果が分かっているモノを、まとめるだけになる。
最初から、結果がある程度わかっているモノを、なぞるだけになる。それだけに、似たり寄ったりな内容になってしまう。
本来、研究というモノは、いつ結果が出るかは分からない。どんな結果が出るか分からない。結果が出る保障もない。
それでもやるのが研究。自由研究は、本来結果を求めてはいけない。そして他のヒトと同じでもいけない。
では、どうするのか。重要なのは、着眼点。面白いとか、不思議だなと思えば、それについて様々に確認していく。
その確認が、研究になる。答えが出るとは限らない。結果が出るとは限らない。
更には見るヒトによっては、取るに足りないコトと言うかもしれない。そう言われても、やるのが研究。
本当は教師にも、研究を受け入れる能力が欲しい。それが足りないので、自由研究はとても狭まる。
本来は、もっと幅が広いモノ。意地悪で、懐の浅い教師が握っている限り、自由研究は歪み続ける。
いっそのこと、自由研究だけは、教師が出すコトを禁止してしまえばいい。
研究を発表する会が存在すればいいし、そこで重要視されるのは、着眼点。よく見て良く感じるコト。
重要なのは、もっとよく見てもっとよく感じるコト。すぐに答えが出る保障はない。途中の段階で構わない。
いろんな着眼点、その感じ方、そしてそれを様々に確認したモノは、きっと面白くなる。
さらに他のヒトのその本当の研究は、自分に刺激を与え、さらに広げてくれる。ホンモノは導いて広げてくれる。
どんなモノでもイイし、結果は出なくてもイイ。バカなコトでも、くだらないモノでもイイ。沢山研究した結果、何も見つからなかったでもイイし、結局他のヒトが出した答えと同じだったでもイイ。
研究とはそういうモノ。結果的に失敗であっても、その経験はプラスになる。
本来の自由研究は、そういうモノ。現状は未熟な教師によって、歪められている。未熟な教育者によって、歪められてしまっている。自由研究と言われているモノは、まるで自由研究ではない。