おさまらない
それは状態。
なぜその状態になるのか。
なぜ、おさまらないという状態に、なってしまうのか。
おさまらないというのは、バランスが崩れた状態。
バランスを取り戻すコトをすれば、おさめるコトが出来る。
どうやら心の中に、バランスがあるらしい。それがシーソーのように、バランスをとっているらしい。
その、シーソーのようにバランスをとっているモノとは、何なのだろう。
一つは損得。もう一つは、正悪だろう。その二つがシーソーのように、いつもバランスをとっている。
そのどちらかがバランスを崩した時、それを許せるかどうか。
許せるかどうかで、おさまりがつくかどうかも決まる。
ただ、それはかなり個人差がある。道理をキッチリと通すコトを、考えの土台に置いているヒトほど、許すコトが難しくなる。
逆にルーズなヒトなら、多少おかしなコトがあっても、許せてしまう。
全てのヒトが納得するようにと言うのは、かなり難しい。
それだけにおさまりがつかない状態というのも、仕方がない。問題はそれが改善に繋がるか、どうか。
改善に繋がらない場合は、無駄になる。その時にどうするか。
信念を曲げて、おさめるか。それとも不利益を承知で、突っぱねるか。
おさまらないコトは沢山ある。おさめる必要がある場合と、おさめてはイケない場合がある。
どちらにするか。その場その場の状況、状態によって変わってくる。
おさめなければイケない状態なら、頭の中に他のモノを入れて、クールダウンさせるしかない。
おさめるべきでないなら、リスクを覚悟で戦わなければいけない。ただこれも危険なので、おすすめは出来ない。
ヒトが完璧でない以上、様々な問題は起こる。いつまでたってもヒトは発展途上。成長過程にある。
その中で、いろんなおさまらないコトが起こる。おさまらないというのも、とても大切。
みんなおさまりをつけすぎても、改善はされずに、ずっと社会は問題のあるまま。
おさまりがつかないというのは、相当強力な感情。それだけ強力なチカラも、世の中が改善される為には、必要なのかもしれない。
おさまりがつかない。その激情は、まさに劇薬。諸刃の剣。それだけの強力なチカラでしか、世の中は変わっていかない。危険なチカラも、時としては必要。同時に必要でない時、おさめる制御能力も、持たなければならない。