いかり
これは、どこだろう。
また探ってみる。
怒りについて、探ってみる。
怒りは自分の中から起こり、自分の中に留まり、高まり沈静化する。
自分が想定している状況にならなかった時、怒りは湧いてくる。これは悔しさの時と同じ。
怒りも悔しさも、同じ状況で起こってくる。では、怒りになるか、悔しさになるかはどこに違いがあるのだろう。
怒りも悔しさも、想定が崩れた時湧き上がるモノ。怒りの場合、そのほとんどが他人に対して向けられる。
他人の行いに対して向けられる。ヒトは他人に対しても、ある程度行動を、強要している。
その強要が届かなかった時、怒りを感じる。
ヒトは群れで生活する生き物。
それぞれポジションを作り、そのポジションにふさわしい自分を、演じて生きている。
そのポジションにふさわしくない行動をした時も、怒りを感じる。
それは個人差もあり、さらに表面に出てくるかどうかという違いもある。
ただ、ポジションにふさわしい振る舞いをしないヒトを、ヒトは快く思わず、多かれ少なかれ怒りが湧いているのは、事実。
そしてヒトとしての行いから外れる行為に対しても、怒りを感じる。
やはり他人に対して、または自分に対しても、それなりのカタチを求めてる。
そのカタチから外れた行動をした時に、怒りを感じるように出来ている。
あくまでそのヒトが決めているカタチであり、それが正しいかは別となる。
明らかに間違っているコトでも、そのヒトがそれを他人に求めていれば、それで怒りを覚えていく。
さらにポジションで相手に求めるモノは、時代とともに変わり、または時代が変わっても残るため、ヒトにより大きな差も出来ている。
それは、よく見極めた方が良い。
なんだか分からないうちに怒り出した、そういう表現はよく聞くが、それぞれに求めているカタチが違うので、現実としてあり得るコト。
それぞれ求めるカタチから外れた時、怒りはこみ上げるように出来ている。ヒトによってまるで違うのは、当然と言える。
ヒトそれぞれ違うので、とても厄介。しかも怒りには、暴力衝動もともなう。一歩間違えれば、危険も伴う。
暴力衝動をおさえられたとしても、精神的な面に症状として出てくるかもしれない。
他人に対して、あまりにカタチを決めすぎると、怒りが湧き、精神も害してしまう。
多様化が認められる時代、ある程度幅を持たせるコトも、必要と思う。
それが、自分を守るコトにも通じる。
怒りは群れをなす動物として、自浄能力を果たす意味を持つ。
ただ、群れの中で求められるコトは、時代とともに変わっていく。状況とともに変わっていく。
ヒトに対して求めるカタチも、変えていかなければいけない。境界線はどこにもない。見本もどこにもない。
何が正しいかも分からない。とすると、ある程度幅を持つというのが、一番の得策と思う。
自分の怒りによって、他人を傷つけたり、自分を傷つけたりしない為に、幅は必要だと思う。
自浄能力と言う一面と、傷つけかねない一面を持つ、怒り。怒りは、諸刃の剣として、ヒトの中に潜んでいる。他人との関係だけに、危険も伴い存在し続けていく。それが怒り。