ちぇっく
育っていく。
不正は育っていく。
チェックがなく、みんなやっているという状態なら、確実に不正は育ってしまう。
チェックがないというのは、バレないというコト。
チェックという確認行為を、誰もしなければ、有っても無くても一緒と言える。無いものになってしまう。
さらにみんながやっているとなれば、ハードルは下がり、決まりを守る方が異常と思わせもする。
みんながやるコトで、それが基準やルールにまで、成り上がる。その世界ではそれが当然で、ルールとしての顔をもってしまう。
たとえそれが不正であっても、チェックがなく、みんなやっているとなると、してもイイ事になり、広まっていく。
そこまで放っておくのは、とてもルーズと言っていい。その不正が広まるのも、仕方のないほどルーズと言える。
ヒトはチェックしてあげないと、イケナイ。とくに不正なら、ほったらかして良いハズがない。
そこで問題になるのが、チェックするという行為自体。これは疑うと言うコト。
本来は信頼をしたい。それを疑ってかかるのが前提。これは非常に難しい所。
チェック自体、そのヒトに強いるコトになる。これを、一方的に行えば、疑うという行為になってしまう。
ならば、取り締まる側の人間も、同じようにチェックの対象になればいい。同じようにチェックをされればいい。
そうすれば、疑いや信頼と言った、存在の否定や肯定には、繋がらなくて済む。
あくまで行為自体を、正すコトを目的として、ルーズなモノを締めていく。
ニューヨークで実証された割れ窓理論も、ルーズな状態を、厳格化させる意味で同じと言っていい。
ヒトは、見られてないと、不正でも簡単にしてしまう。みんながやっていれば、なおさらやってしまう。
それを前提にすれば、チェックするコトをルーズにしてはイケナイ。厳格化して、引き締める必要がある。
それまで当然のように行われた行為なら、そのヒトたちを取り締まるより、まずはルーズさを払拭していく。それをしなければ、いつまで経っても、同じような不正は起こってしまう。ヒトには、見られるという恐怖も、必要と言える。