じょうほう
コト足りる。
コト足りて、ヒトが見えなくなる。
情報に埋もれて、ヒトが見えなくなる。
情報でコト足りる。人も情報に変わり、モノのように扱われる。それでもそれでコト足りる。
とはいえ、それでは無理をしている。無理をしているモノは脆い。いずれ崩れる。
情報というカタチで、非常にコンパクトになって、高速で大量に処理される。
でもヒトはモノではない。そこには、かなり無理が生じる。というより、面白くないし味気ない。
最初は通用するかも知れないが、そんなモノを誰も求めていないので、疲労を感じ、いずれ崩れる。
情報の社会を、やめろと言うわけではない。やめろといった所で、やめられるワケがない。
そうではなくて、情報の中にもヒトの要素を混ぜ込む。ヒトの多様性をはじめから、混ぜ込んでおく。
それが出来たモノは、あとあとまで残っていくように思う。ヒトの要素がないモノは、無理をしているのでもたない。
たとえ、ヒトの姿形をマネて、ネット上に存在出来たとしても、それがただの作り物である以上、もたない。
どこかに必ず、ヒトの要素を入れるコトで、味が出てくる。
ヒトはこの味を求めている。これがなければ、字のごとくとても味気なくなってしまう。
ヒトは、味のあるネット社会を欲している。
情報だけでもコト足りるが、それだけでは味が足りない。
情報の社会であっても、きっちりヒトの要素を混ぜないと、原因のわからない疲れに襲われる。
結局そこに無理があるから。なぜだか分からない疲れが出る。
ヒトの要素が削ぎ落とされ、コンパクトな情報になる。その情報に、またヒトの要素を入れていく。わざわざなぜそんなコトをするのかと訊かれれば、それはヒトが欲しているから。味のあるネット社会を、実は欲しているから。