ちゅうい
届くだろうか。
どうしたら、届くだろうか。
注意をするとして、どうしたら相手に届くだろうか。
いや、注意をする自分自身は、相手に届かせたいのだろうか。
とても腹立たしい行為を、するヒトがいる。
まずは、それに対して怒りを覚える。その怒りのぶつけ所を、その原因であるヒトに求めた場合、ただの腹いせに終わる。
注意や指摘は、相手に気づかせ、間違えを改めてもらわなくてはイケナイ。
自分がもし、間違った行動をして、他のヒトが腹立たしい思いをしていたらどうだろう。
まず、自覚して間違った行動をしている場合と、そうでない場合がある。
自覚しているならば、少し言われれば、すぐに謝るコトが出来る。では、自覚していない時はどうか。
自覚していない時に、注意された場合は、それに納得するまでに、それなりの手順がいる。
まさか自分が、という段階がある。みんな自分は、正しいと思っている。
その時に、自分が間違ったコトをしたと、認められるか、認められないか。これは、年齢は関係ない。どちらかと言えば慣れ。
年配であっても、間違ったと認められない人間は、後輩に当たる。率直に誤りを認められるヒトは、先輩と言える。
ヒトによって違い、慣れによって違う。そのいろんな状態のヒトがいるコトを前提として、全てのヒトに有効な指摘の仕方を、考えてみる。
まず、チカラで押し切ろうとするのは大変危険で、やるにしてもやられるにしても、無駄な被害を出してしまう。
しなければならないのは、味方という関係。敵対しては、チカラの勝負になって、危険を伴ってしまう。
味方となって、同じ方向を向く。同じ方向を向いている限り、危険は回避出来る。
相手に付け入る隙を与えない為に、胸をはって背筋を伸ばす。逃げ腰では、結局敵対と同じ。あくまで対等でなければ危険。
まずはあいさつ。礼でその世界に入れる。そして、事実確認。その後、注意。最後にお願い。
その後も迷惑行為を続けるようならば、それは構わない。あくまで届けばいい。
それ以上は求めない。最終的には、自分で解決しなければイケないコト。自分で解決させるコト。
結局他人が出来るコトは、気づかせるまで。その後は本人にゆだねられる。
注意も指摘も、その場で決着がつくのではなく、その後の行動全てが物語っていく。
もし注意指摘をしたいのなら、自分の出来るコトは、途中までだと理解した上で行う。
年齢は関係ない。出来ていなければ後輩。出来ていれば先輩。みんな社会の中で成長していく、ただの先輩と後輩。