1から10
不足している。
あきらかに不足している。
教えられるモノでは、あきらかに不足している。
教える側に立ってみれば、教えられるコトを、伝えているだけ。
ただ、これでは物事の全容までは、伝えていない。
1から10まで、すべてを教えてなどいない。教えられるモノを、教える側の都合で、こなしているだけ。
物事は、おそらくもっと広がりを持っている。そのごくわずかしか、教えるコトは出来ていない。
やり方として、自分がヒトに説明したり教えられるように、というのがある。これは的確で、ヒトに教えられるようになるには、より立体的に知るコトが、条件になる。
立体的に知らないと、いろんなパターンに対応出来ない。それで、おのずと教えられるモノ以上のモノが、必要だと分かってくる。
自分に足りないモノを、意識するコトにも繋がる。それを埋めればいいという、次にやるべきコトも分かってくる。
ただ、教えるだけでは、1から10というわけにはいかない。教えるという行為自体で、かなり範囲が狭まってしまっている。
ならば、その物事を1から10まで、説明出来るようにするに変えてみる。
1から10までというのは、すべてというコト。その物事が、1から10まで解明されているかは、わからない。
それでもまるで構わない。1から10まで、解明されていないと分かるだけで、もうモノにしだしている。
1から10までヒトに説明するとなると、とてもめんどくさい。そのめんどくささは、乗り越えないとイケないチェックポイントと言える。
めんどくささを超え、教えられるを超えた時、物事のなんたるかも見えてくる。
ノートを取るという行為がある。これは情報を、書くという実経験に変えるコトにより、記憶しやすくするというやり方。ただ、それは自分の為のモノ。
できれば、ヒトに1から10まで説明するためのモノとして、ノートには書き込んでいきたい。
もちろん、1から10までというのは、不可能かもしれない。それでも構わない。あくまで人に見せる、そして伝える目的で、分かりきっているコトも、丁寧に書いていく。
すると、自分が今どの部分をやっているのか、明確に見えてくる。さらにナニが足りなくて、どう補えばいいかも、見えてくる。
そしてその先に、どういうモノが待ち構えるかも、どう続いていくかも、見えてくる。
道は開けている。いや、道が開けてないなら、自分が切り開くまで。1から10までにはその答えがある。
どうも一部に固執して、ワケのわからないままやり過ぎている。1から10まででなければ意味がない。
おそらくは足りないモノだらけ。見落としているモノだらけ。それを拾って、1から10まで伝えられるように、書いていく。それで、つまづいていた過去の自分と、決別出来る。