えすかれーしょん

さくら

さくら

のっけていく。

こころをのっけていく。

モノに、こころが乗っかっていくコトがある。

モノはただのモノである筈なのに、ヒトのこころをのせ、その状況に導いていく。

モノが情景を思い浮かばせて、情景の中に、一瞬にこころを飛ばしてくれる。

モノというのは、いろんな表情を持っている。その組み合わせ、さらにそれに動きが付いて、情景を作り上げていく。

その絶妙な描写で、その世界に入り込める。的確な組み合わせ、その動きによる意味づけ、その中でヒトのこころは、揺れ動いていく。

なぜ、そのようなモノの中に、もしくは映像でも、心は投影されるのだろう。

決して、現実に起こっているわけではない。そのモノにまで、どうしてこころは揺れ動くのだろう。

さくらの花が満開になり、そして春の風とともに散っていく。実際にも、映像としても、それだけで心は揺れる。

それは目からの情報。いや、言葉であっても成立する。イメージさえ出来れば、成立する。

こころの中に、ナニか感情の揺れのようなモノがある。いくつのも道が、感情の中にある。

喜び、不安、せつなさ、怒り、それぞれに道がのびて、自分はその手前にいつも立っている。

感情が表面化するのは、行動。その行動を象徴化するのが、その時のそのモノ。モノが、それを象徴する。

それで、モノにこころは投影される。象徴的なモノを、絶妙に配すれば、現実と変わらぬそのイメージの中でも、心は動いていく。

岐路に立たされたヒトに、その進むべき行動を示す時、感情を動かすコトが出来る。

みんな、感情の道の、岐路に立っている。それで、モノでも、それに動きが付けば、そのイメージの中に旅立つコトが出来る。

感情の道の先、それがイメージとなりそこに旅立つ。様々な感情の中で、ヒトはそれを楽しんでいる。

悲しさも、切なさも、喜びも、いろいろあって揺れ動いて、とても豊かな気持ちになれる。

その為の表現、描写を、みんな求める。始まりは、なんとなくなのかもしれない。それでも、それに誰かが解釈を付けて一般化した時、途端に明確な共通の感覚になっていく。

こころは揺れている。いや、とても揺れていたいモノ。それで、様々に工夫されたモノ達と動き、そして解釈が編み出されるのだろうと思う。

-えすかれーしょん