あじ
感じない。
ムダとしか、感じない。
評価されるモノの中に、どう見えもムダとしか、感じないモノがある。
必要性から見れば、どう考えてもムダであり、余計なモノ。それが付いている。
このムダで、余計なモノとは、何なのだろう。
もしもムダで余計なモノが一切無い、必要最低限のモノしかこの世になかったなら、どうなるだろう。
おそらくそれは、とても味気なく感じる。必要なモノだけでは、ゆとりや間、心に触れる部分も欠落してしまう。
遊びが無く、味気ない。味・・・・。
もしかすると、ムダで余計なモノは、味の部分を担っているのかもしれない。
味というのは、ムダで余計なモノなのかもしれない。
とは思うモノの、やはり味は絶対に必要な気もする。これはどういうコトだろうか。
ヒトは必要なモノ以外も求めている、というコトだろうか。では、そもそも必要なモノというのは、なんだろう。
困らない為に、目的に合った存在のモノ。それが必要なモノ。
確かにそれだけで、コトは足りる。それをなぜ、それ以外のモノを求めるのだろう。
必要なモノだけだと、少し機械的な感じがする。広がりが無く、それだけになる。このそれだけを、嫌っているのだろうか。
たしかに、それだけであれば、イメージの広がりはない。ヒトは、イメージの世界で遊ぶ生き物。
必要なモノだけでは、その遊ぶ場がない。さらには、間がない為に、使うモノが自由に発想するコトを許さない。
それはとても窮屈なモノ。必要最低限というのは、とても窮屈なモノなのかもしれない。
そこでムダや余計なモノを入れる。すると、とても自由で広がりがある、豊かさのようなモノを得られる。
ムダや余計の中に、ヒトがヒトとし生きられる、イメージの拠り所があるのかもしれない。
その中でヒトは喜び、そして自由に遊んでいるのかもしれない。
味というのは、ムダで余計なモノ。とはいえ、それはヒトがヒトらしくある為に、必要な要素。自由なムダの中に、ヒトが生きるもう一つの世界が広がっているのかもしれない。