える
見失う。
ナニをすべきか、見失ってしまう。
それはもしかすると、手に入れてしまったからかもしれない。
山を登るヒトがいる。そのヒトは、頂上に着いた時から、もう登る必要はなくなる。
それは当然で、もう登る要素は残されていない。
ただ、もしも頂上だと気づかなかった場合、登るコトが出来ない現実を、嘆き出す。
山のような、わかりやすいモノなら、そんなコトはないだろうが、わかり辛いモノならどうだろう。
自分が手にしているのに、それに気づかない。手にしていながら、なおも探し続けていく。
実は得ている。もう欲しいモノは、得ているので、何も要らない状態。
それなのに、それに気づかず探し出す。そのままではイケない、強迫観念にとらわれて、自分を責めて行く。
見失っている時は、もう得ているコトが多い。得ているのに気づかない。
頂上にいるのに、まだ登り続けようとしているようなモノ。
ただ、実際問題として、得てしまってから次の獲物が見つかるまでは、抜け殻になってしまう。
得る能力だけ残って、能力を活かせる場を自らが奪ってしまった結果のコト。
ヒトが、自分の能力を活かすには、得ていない状況が必要らしい。
現在はこれだけ豊かなので、いつの間にか得ている。得ていない状況というのが、難しいのかもしれない。
それで見失う。自分がどうあるべきか、ナニをすべきかというコトを。
傍から見れば、沢山のモノを得ているのが分かるが、自分では気づきにくい。
さて、これだけモノに溢れて、得やすい中でどう能力を活かしていくか。どう見失わずに、生きていくのか。
どちらにしても、自分の得ているモノを確認した方がイイ。
その上で、さらに上等なモノを得ようとするも良し、得ているコトに満足するも良し。
どうも贅沢すぎる悩み。それだけに、深刻かもしれない。もし見失ってしまったら、確認。自分の持っている大切なモノを。
その手に大切にしているモノを得ていれば、自分の能力を捨てるか、大切にしているモノを捨てるしかない。
活かせる場がなければ、宝の持ち腐れ。現代には、それが多いのかもしれない。得ているから見失う。得ていないので能力を活かせる。という、たいへん複雑な仕組み。それだけに真実なのかもしれない。