しんじる
実は見ていない。
まるで見ずに、結論を出している。
崇拝も、差別も、ヒトがしている真逆の行為。でも、実は同じ。両方ともまるで見ていない。
まるで見ずに、そういうモノとして、脳の中のポジションに固定してしまう。
崇拝はその者に何かを求め、差別はその者に、何も求めない。
崇拝は絶対的な存在であり、差別は取るに足らない存在。ただ、実際は何も見ていない。
本質など関係ないので、崇拝しているモノと差別しているモノを入れ替えても、成立してしまう。
信じるとは、相当のくせ者。見ないようにしてしまう。更には不足分を、勝手に作り上げもしてしまう。
神も悪魔も、実際見たコトがないヒト達が、作り上げてしまったモノ。
信じるとは何だろう。預けるに近い。ゆだねるに近い。見ずにその世界に溶け込ませてしまう。自分を組み込ませる。ならば、見る必要など無い。
見ずに、ただそこにあるモノに、沿って進むだけ。
なぜヒトは、そこまで見ずに、行動できてしまうんだろう。
子供の頃、親の言うとおりに動いていたのに近い。いや、自分で判断できるようになるのは、それなりに大きくなってから。
ヒトは、もともと考えないで、見ないで、流れに沿って行動していると言っていい。
だとすると、周りの流れで、崇拝したり、差別したりが決まる。神になったり悪魔になったりが決まる。
もともと、たいして見ていない、考えていない。長い歴史の中で、そうやって生きてきた。
ちゃんと見て、考えて行動していると思ってしまう方が、事実と違うのかもしれない。
信じるとは、ともかくその流れに沿いなさいというコトのように思う。ヒトは、ただ流れに沿って生きている。
何に沿うか、マチガイだらけの考えの中、それを決めるのは自分。どちらにも行ける。どちらにも沿える。
そのたくさんの流れの中で、最終的に決めるのは自分。自分が沿うべき、信じられる道を。選ぶだけ。