ひろがる
もっと世界は、広がっている。
過去にこのブログでも何度も書いている、世界はもっと広がっているというコト。
実際に、もっと世界が広がっているとは、どういうコトだろう。
私たちが認識、共有するモノ。わかりきっていると思うモノでも、実は知っているのは断片的な所だけ。
リンゴと名付けられた物体があるとして、果たしてどれだけ知っているだろうか。
もちろん見たコトも、食べたコトもある。感触も知っている。わかりきっていると思うのも当然。
それでもリンゴのルーツも知らないだろうし、個の違い、ヒトが知り得ない成分も、実はあるかもしない。
ある程度の所で、すべてを分かったつもりになってしまっているのかもしれない。
リンゴでそうなのだから、他のモノならなおさら。
それでもヒトは感じている。感じるコトは出来ている。その立体的な広がりも、感じている。
ザンネンなのは、感じるだけでは、他のヒトに伝わらないというコト。
伝える為には、コトバなどの表現がいる。コトバで定着をさせ、共有化する準備は出来る。
ただ、ひとつのモノを表現するのに、あまりに多くのコトバで説明するようになると、あまりに多すぎて省くようになる。
結局ヒトは、そこまで求めない。たくさんの広がりの一つ一つを知ったとしても、逆に型にはめて省いていく。
ヒトの能力の限界。あまりに多すぎるモノは、処理しきれない。
真実の姿を知り得ても、処理しきれなければ、省いていく。
人が見るこの世界は、ヒトの処理能力の範囲内で、広がり続ける。
それを越えた途端、真実ではなく、デタラメな方向であっても、型にはめて処理能力内に納めようとする。
それはヒトの、インチキさ。自分も含めて、結局ヒトはインチキ。インチキな世界の中で生きている。
作り上げた世界は、処理能力内のインチキなモノ。違和感を感じるのも無理はない。
真実の世界は、感じるコトでしか、処理能力内に収まらない。あいまいさを残して、省かれなければ、とても納まりきらない。
どの世界でもおかしい。インチキ。でもその外には、広がりのある真実の世界がある。感じるコトしか、許されない、真実の世界。