なまえ
名前は自分だけのモノ。
自分だけのモノには、違わない名前。でも、名前は自分以外のヒトが使う。
名前を呼ぶのは、自分ではなくヒト。名前をよく使うのは、自分ではなくジツは他人。
名前というのは、他人が使う為に用意されている。
どうしても自分だけのモノだと、思ってしまう。でも実際には、他人に使われる為のモノ。
自分のモノでありながら、唯一自分の自由にならないのが、名前と言える。
さらに大げさに言うなら、その名前を呼ばれるコトで、相手の支配を受ける。
いや、ナニが取られるわけでも、行動が制限されるわけでもないが、相手に自分を捕らえられる。
名前は自分に繋がる、逃げ場のない証明。名前を呼ばれるコトで、自分の本体が強制的に向き合わされる。
とても気づきにくいが、名前というのは、けっこう重たい。あまりにも自分を含んでいて、重たすぎる。
なので、みんな愛称だったり、続柄の呼び名で呼んでもらったりする。
直接の名前は強すぎる。自分を強烈に、捕らえられすぎる。それでそれを少しでも、弛めようとしている。
名前は逃げられない自分。それで、みんな極力それを避けて弛める表現を使う。
本当の名前を知られると、相手に好きなように支配されてしまう。『ゲド戦記』の世界では、そのように描かれているが、まるでファンタジーと言うわけではないように思う。
この社会の中で、名前は自分固有であって、さらに相手に支配される道具でもある。
ヒトは関係し合って生きているので、支配されるのも必要かも知れない。ただあまりにも名前が重すぎるので、立場を作り、関係性の表現を生み出すコトで、それを弛めているのかもしれない。