あわれむ
憐れと、思われたくはない。
憐れにはなりたくない。
憐れは、行動や状態。
憐れと、言ったり感じたりするのは、傍観者や見守るヒト。
あるべき自分に対して、落ちぶれた状態になった時、憐れと思われる。
ただし、それは取り乱したり、嘆いたりしている場合に限られる。
威風堂々と、その状態を受け入れていれば、どんなにヒドイ状態でも憐れにはならない。
憐れは、最後の砦の自分が、たじろいでいる時、そう感じさせる。
他人を見下すように、憐れと思うコトもある。
自分が優位に立って、相手を憐れと、さげすむ。
ただ、実はこれこそ角度を変えれば、憐れであり、とても落ちぶれた行動にあたる。
憐れとは、結局は自分自身。
その時その時の、カタチに腰かけて、借り物の自分で満足しているので、状況の変化でたじろいでしまう。
まるで流れに翻弄される、小さな笹舟のように、その度に大きく振り回されてしまう。
どんな状況にあっても、本当の自分を確立していれば、憐れになるコトはない。
よい境遇に寄りかからず、自らの足でシッカリ地面を捉えていれば、振り回されなくて済む。
憐れは境遇や、状態ではない。最終的には、自分という砦。ココが崩れなければ、憐れにはなり得ない。