多分分かる世の中の事

信じる

見ていないの巻

今日は、2009年12月8日のブログが面白かったので、その中身のまま今の方式で書き直します

見ていないらしい。まるで見ずに結論を出しているらしい。と、過去のブログに書いてある。なんのことだと思うだろうけれど、崇拝と差別

このブログによると、崇拝も差別も見ていないのだという。実に面白い。崇拝と差別は人がする真逆の行為。この真逆の行為が、本質は一緒だというのだ。こんなに挑戦的な内容はないだろう。どういう着地点になるのかだけを考えても、ゾクゾクする

崇拝と差別というのは、まるで見ていないらしい。見ていないというのが、本質的に一緒だというのだ。見ずに脳の中で固定してしまうのだという。フムフム、なかなか引き込まれる内容になっている

崇拝は何かを求め、差別は何も求めない。崇拝は絶対的な存在で、差別は取るに足らない存在。ごもっともごもっとも。それで何も見ていないらしい。驚くのはその後

崇拝と差別を入れ替えても成立すると言う部分。これはかなり挑戦的。我ながら、相当挑発をしている内容になっている

信じるというのは見ないようにしていて、不足分も勝手に作り上げてしまう。確かにそうかもしれない。差別に関しても、差別出来るように勝手に何かを作り上げて押しつける。脳の中で、イメージを固定化して足りない分は付けたしてしまう。これもありうるかもしれない。なるほど、崇拝も差別も確かに同じ部分がある

何も見ていないのだし、決めつけているだけだから入れ替えても気づかないかもしれない。崇拝も差別もいい加減なモノ。いい加減である以上、入れ替えても誰も気づかないよね。確かに確かに

ブログの内容は、まだ続くのだけれども、ここまでで充分と思う。気になるヒトは、しんじる を見て欲しい。崇拝と差別が一緒のモノで、見ていないとはね。わたし自身が、出した結論だけれども、すっかり忘れているモノです

挑戦的な内容なのに、しっかりと納得出来る答えを用意している。自分で自分を誉めてあげたいね。そして人間の脳って、イメージを固定化してしまうんだね。それを都合良く、補完もしちゃう。それで崇拝と差別が存在する。無責任に依存、無責任に侮蔑する存在を作る。ホントに困っちゃいますが、そんなモノなのでしょう。はい、じゃあ今日はこの辺で

2009年12月6日〜12日までの私のブログトップ3を、わたし自身が選ぶコーナーです。よろしければお読みください。 1位  しんじる 2位   3位 あやしいでした。お読み頂きありがとうございます

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