職人病の巻
日本の職人はすごい。1ミリの狂いなくピタッと完璧に合わせる。そんなテレビ番組を最近たくさん見る。実際職人はすごいのだろう
1ミリの狂いもなく、ピタッと合わせることこそが、その職人の誇り。惚れ惚れする出来。クオリティを求めるほど、そのような神業になっていく。まさに名人芸。とても素晴らしいけれど、あらゆる事でピタッを求めると少し窮屈になる
多少ギクシャクしていても、間に軟骨のようなクッションがあればダメージはない。ピッタリを意識しすぎて、クッションを作る意識が育たなかったように思う。クッションのクオリティを上げれば、多少のコトは吸収してくれる。多少不格好にはなるけれど、それも一つの方法だろう
ピタッと行く社会は、うまく行っている時は良い。ただ少しでもズレが生じると途端にギクシャクする。モノであれば修正が効くだろうけれど、もしもそれが人ならば限界がある。人に対してもピタッを求めては、不具合が生じてしまうだろう。少しぐらいなら、受け止められるだろうけれど
職人病は蔓延している。とくにヒトに対してまで、ピタッを良しとすれば無理が出てくる。いや実際の職人は、不確定要素にも対応する。そのモノに合わせて、対応する能力を持っている。職人病という表現は、マチガイだと思う。ただどこかで、対応するコトが出来ない要素が取り込まれた。そこにこの病気の原因はあるだろう
おそらく学校だと思う。学校というのは順応するモノで、対応する必要は無い。不確定要素も要らない。正誤が決まっていて順応して従うだけ。それが癌化させた。職人ならば対応出来るが、正誤は対応せず決まり切ったモノを押しつけるだけ。これが社会にもはびこり、とても窮屈にしている
どの人も順調に行ってればいいが、少し転んだだけで復帰は厳しくなる。おかしなくらい窮屈な学校病の社会。転んだら、そこからどうするか対応すれば良いだけ。もしくは最初から転ぶコトを想定して、クッションを用意しておけば良いだけ。ピタッとする神業は、モノだけにして欲しい。軟骨のようなクッションを最初から用意したい。その方がクオリティの社会になる。誰でも何度でもやり直せる社会の方がクオリティは高い
2009年10月25日〜31日までの私のブログトップ3を、わたし自身が選ぶコーナーです。お読み頂ければありがたい。 1位 じゅんたく 2位 れーす 3位 げんそうでした。お読み頂きありがとうございます