多分分かる世の中の事

リアリティ

習得の巻

普段言葉をしゃべっている。それは無意識に近い。その場その場で、言葉が出てくる。コレは日本語の話。日本語だと、ほぼ無意識で言葉は出てくる。ただ、他国語となるとそうは行かない

日本語はしゃべれる。他国語はしゃべれない。その圧倒的な差にイヤになる。余りにも出来ないので、別物という判断。コレではしゃべれるハズはない

どうも何かがオカシイ。こんなにしゃべれないハズはない。ただ実際、他国語はまったくしゃべれない。なぜそんな事が起きてしまうのだろう

おそらく決定的に間違っている所がある。間違ったままやっている。労力をかけても、報われない。何かがオカシイ。そこまでは気づくのだけれど、それが何かまでは分からない

と、いろいろ考えて見えて来たことがある。それはいろんな言葉を習得しようとする中でのコト。最初の頃は難しいと思いながらやっていた。難しくて当然と考えていた

他国語はとても遠い所に感じる。そういうモノだと思っていた。ただ、徐々に同じ人間だと思えるようにもなってきた。同時にとても近しいと思えるように。その考え方の変化

同じ人間であり、同じような感覚も持っている。違う所もあるけれど、共通点の方が多い。その中で、遠いと思うコト、距離を置くコトの不自然さに気づき始めた。その考え方の変化で見えて来たモノがある

もしかして、もっと身近な存在にするべきなのではないかと。見えて来たのは、身近なモノ。身近なモノから、他国語化していく必要があるんじゃないかと

身近と言えば、日常。日常の生活で使うモノから、他国語化していけば良いのではないか。その国の言葉で、コレはなんというのか。一つ一つ他国語化してアウトプットしてみる

目に入るモノを、極力その国の言葉に置き換えていく。それは、リアリティに繋がる。脳の中で、とても血の通った記憶になってくれる。文字や音声だけではなく、リアリティのある記憶は、定着もし易いだろうと考えられる

最初の段階で間違っていた。お勉強という言葉に振り回されて、そういうモノだと思い込まされていた。リアリティのない情報を記憶した所で、定着しにくい。そこで確信した

習得するには、リアリティが必要だと。ただ、身近なモノを他国語にするという教材は、皆無に近い。やるならば自分で作るしかないだろう。それだけは難点

一応グーグルの翻訳があるから、日本語を入れるだけで、言葉は出てきてくれるし音声も分かる。チマチマやるしかないのだろう。インプットしたら、日常でアウトプットして定着

その繰り返しで、身についていくのだと思う。特に大きな壁である、母国語との差。それはリアリティのある言葉を増やすコトで壊せるだろう

ある程度その地域に住むと、言葉を習得出来るのは、リアリティのある言葉ををインプットしてアウトプットするシチュエーションが整っているからだと推測出来る

他国語を学ぶ順番というのは非常に重要だろう。そこを間違ってしまうから、イヤな思いだけで一向に進まない。やるほどにイヤになっていくのだから、それも当然

リアリティのある言葉で埋め尽くし、実感を伴ってから次の段階に行くのが順当。現在のお勉強は、ダメダメのやり方と言えるように思う

順番はリアリティのあるモノから、それを結論としたい。もう一つ最近気づいた事があるので、付け足しさせてもらおう。言葉はそれなりに意志を持って話しているというコトを

日本語をしゃべる時も、それなりに意志を持って話している。コレがやりたいとか、伝えたいとか、思う事とか。それは日本語以外でも、どこの国でも共通部分

つまり人が話す場合、意志があるというコト。この意志があるというコトを意識すると、ただの音声や文字ではなくなる。そこに人の想いがあるし、その想いの括りの中に全ての言葉は入る

想いさえ分かってしまえば、それに沿った内容だと推測がつく。それは手がかりとして有効だろう。可能ならば、その人がどんな意志を持っているのかをまず押さえたい。同じ人間だから、意志さえ押さえればなんとなく分かる部分も増えるだろう

話は逸れてしまったが、言葉はもっとリアリティのあるモノと結び付けるべきと言うのが結論になる。その為に日常をまず、その国の言葉で言えるように。それが最短の方法論

2008年8月の月間大賞を発表します。月間大賞は、居心地の悪さ良さ と はんぶん の二つでした〜〜〜〜〜〜!!

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