生と死の巻
生きるというのは、単純にエゴだろう。エゴがなければ生きていけない。ただ、エゴのままで生きられると、周りはたまったモンじゃない。この矛盾の中で、人はどう生きればいいのか
歳をとる毎に経験を積む。経験は成功例ばかりではなく、失敗例も含む。両方の経験を積んで、自分と周りと何が違って、どう同じかを知っていく
周りの反応を見て、自分がどう振る舞うべきかも学んでいく。エゴに任せた行動から、少しずつ修正を加える。迷惑が掛からないように
生きるチカラはエゴから生まれる。ただ社会の中でエゴは迷惑にしかならない。そこで修正を加えて、エゴを消していく。このエゴを消す行為は、死ということだろうか
エゴが生きるなら、エゴを消すのは死か。歳をとってさらに歳をとれば、いずれ死が訪れる。歳をとるというのは、死に近づいているのだろう
肉体的な死と共に、精神的にもエゴを消して死に近づくのだろうか。経験を積んで歳をとるというのは、死の要素を増やすと言うコトだろうか
死というのは、悪い意味で捉えガチだけれど、みんなに訪れるモノ。想像出来ないかもしれないけれど、少なくとも善悪には関係無い
その本当の意味合いの死というのは何なのか?それに答えがあるのなら、探ってみたい。エゴを消した所にあるモノ。それは死なのだろうか
死があることで、人生のいろんなしがらみから解放される。解放されるコトが良いのなら、なぜ生まれたのだろう。解放されたいのならば、生まれなければいい
なぜ、迷惑なエゴを埋め込んで、生命は生まれてくるのだろう。コレはとても難しい。確かに解放されるコトは良いことだろう。ただ、それは人による。死というのは強制的な解放だから、それを望まない人も多いだろう
生まれていない状態と、死という現象。この二つのモノが同じだとしてそれはどんな意味を持つだろう。生まれる前はまだ白紙で、死というのも一旦白紙に戻ると言うコト・・・・・・・
生まれる前も死というのも、白紙のノートと考えてイイのだろうか。だとすると、解放されるコトの意味、エゴを埋め込んで生まれてくる意味は、何になるだろう
解放されるのは、ノートを取り上げられるに近いのかもしれない。そして白紙のノートを渡される状態。生まれる前の状態というのはそんな所か
生きている間しか、ノートには書き込めない。死んでしまえばノートを取り上げられてしまう。そんなイメージで良いのだろうか。ハッキリとは分からないけれど、とりあえずそれを答えとして置いておこう
エゴを埋め込んで生まれてくる。それの意味はどうだろう。エゴを埋め込まれなければ、迷惑をかけるコトもなくなると思うけど
おそらくエゴがなくても生きてはいける。ただ、それは他人の為の人生だろう。自分の人生とは言えない。芯がない人生となる。そんな人生は、ないのと同じだと思う
おそらくエゴというのは、人生の芯。自分の人生である証明となるモノ。エゴがあるので、自分の人生になる。ただエゴ丸出しでは迷惑ばかり。経験を積んで、エゴをコントロールする
エゴのコントロールは、死ぬまで続く。エゴとは生まれてから、死ぬまで一生の付き合いだろう。自分が自分である限り、切っても切れない
とすると、死の本当の意味とは自分とのお別れ。他の人と別れると言うより、自分とのお別れだろうか。一生の付き合いであるエゴと別れ、そしてそれは自分と別れる事でもある。とても不思議だけれども、死ぬというコトはこの自分と別れるコトかもしれない
実際にどうなるのかは分からない。自分と別れるなんて事が真実だとしても、とても信じられないし、想像も出来ない。自分と別れてその後どうなるのだろう
ノートを奪われて、また新しいノートを渡される。それでイイのだろうか。とするなら、自分と別れて次の自分になる。死はその為の準備の段階
とても不思議な結論になった。考えもしなかった結論。でも納得出来る部分もある。死は自分とのお別れ。想像出来ないけれども、あり得ると思う。実際どうかは、分からないけれど