苛立ちの巻
なぜ自分は苛立つのか。怒りってどこから涌いてくるのだろう。今日はそれを考えてみる。自分の中の怒りは、何かのキッカケでジワッと湧いてくる
キッカケがあると涌いてきてしまうこの感情は、どういうメカニズムで、存在しているんだろう。このジワッと湧いてくる犯人を捕まえてみたい
ジワッと来るのは、基準をハミ出した時だろう。自分の中に基準があって、そこからハミ出した行為を見た時、怒りがこみ上げてくる
この怒りというのは、自分が譲れないラインを越えた時に涌いてくる。ジワッと来るのは、自分の基準を誰かがハミ出した時だろう
もしも自分の中に基準がなければ、怒りは湧いてこないのだろうか。どんなに酷い行為を見ても、自分の中に基準がない。その時には、怒りが湧いてくるキッカケが見つからない
おそらく怒りが涌いてくるのは、基準があることが絶対前提だろう。なので、人によって怒りの場所が違う。当然なコトだと思う。みんなそれぞれの基準があり、同じ基準なんてありえない
ある意味怒りというのは、その人らしさをあらわしているのかもしれない。それぞれの基準というのがその人らしさ。この基準というモノも考えてみよう
基準はどうやって出来るのだろう。おそらく生まれつき基準を持つワケではない。育っていく過程で、基準というのは出来上がっていくのだろう
良い事と悪い事、成長の過程で身につける要素。この良い事と悪い事というのが、基準に深く関わる予感がする。この基準は家庭に依存する要素
家庭毎で当然基準は違うだろう。というコトは、その家庭毎で、怒り方が違うとも言える。確かにそれはあるような気がする。厳しい家庭では、怒りや苛立ちやすい子供が育つ傾向があるように思う
もちろん家庭環境だけではない。その人の性格もあるだろう。同じ家庭で育っていても、性格によって基準も変わる。兄弟で苛立つ基準が違っても不思議ではない
怒りや苛立ちが、自分の性格と家庭の環境によって作り出されること。それは覚えていて良いように思う。それが分かれば、自分で微調整が出来るから
どこで怒るか、苛立つかは、自分で決められる。もしも必要以上に苛立つようであれば、基準を弛めるようにすればいい
特に我慢を強いられる家庭では、人に対しても厳しくなる傾向がある。それが必要なモノなのか、それとも不要かは自分で判断して修正していく
苛立つや怒りという感情は、実は自分でコントロール出来るのだろう。そして修正もしていける。怒りの元である基準を自分で修正するコトは、生きていく上で重要な行為だと思う。必要であれば弛めて、もしくは締めて。その修正を自在に出来て、人生は自分のモノになるような気がする
2008年7月6日〜12日までの週間トップを発表します。1位 悪 2位 絶望も今なら 3位 ほんの少し先の未来 4位 過去のマチガイ 5位 トラウマゲームでした