演出の巻
日本社会では、肩書きで判断されることが多い。その人がどんな人物かの判断までそれでしてしまうのだけれど、実はつきあい方の問題だろうと思う
明治前まで階級社会があり、無礼な行いをすれば斬られて命を落とすことも、不思議ではなかった。場合によっては、一族全員に降りかかり、あらゆるモノを取り上げられてしまうのだから、付き相方の判断は最重要課題だったろう
もう武士の時代ではないのだけれど、しきたりというのは結構引きずってしまう。武士の時代は終わっても、儒教の考え方は残っている
本当の儒教なら、そこまで悪質ではないのかもしれない。ただ権力者にいいように歪められ、絶対服従的になった儒教は悪質そのモノ。それが現代社会にもうっすら残っている
真っ先にどう接するかを判断し、無礼の無いように行動するコトで自分の身を守る。絶対服従儒教の中にいた我々が恐怖の中で身につけた、生きる知恵のようにも思える
肩書きで自分が上か下かを判断し、振る舞いを変える。服従儒教がはびこる日本社会では、仕方のない事のように思う
と、実はここまでは前フリで、本題は別の所にあったりする。現実社会において、人を判断するのには肩書きを見ればいい。おかしな制度だが、それで済む。ただ、その肩書きが通用しない世界がある
今日の本題はそれで、肩書きで判断出来ない世界では、どう判断すればいいのかというのを考えてみたい。まずは、肩書きで判断出来ない世界は何なのかの説明から
想像の世界。想像の世界というのは、肩書きだけでは判断して貰えない。現実社会ではなく、想像の世界なので、絶対服従儒教の恐怖は及ばない
その想像世界の中では、どうやって人間の位置を判断させているのだろう。それなりの演出をしなければ、位置関係は構築出来ない。その演出について、漫画を例に考えてみたい
漫画の世界では、紙面に登場するまでキャラクターは白紙の状態。読者にとっては、白紙の状態からスタートするだろう。そこから始めて、どう浸透させるのだろうか
まずはチカラ関係。キャラクターの位置として、チカラ関係は重要な情報だろう。今までいたキャラクターと戦わせて、チカラ関係を見せるというのがオーソドックスなやり方かもしれない
読者としては、あのキャラクターを圧倒してしまったとなった途端、その新しい登場人物に一目置く。それが受け入れられる瞬間なのかもしれない
他にも、現実社会では到底動かせないモノを動かす。例えば大きな岩や、ビルなどを持ち上げるなどの演出があれば、読者は一目置くかもしれない
漫画では、読者がすぐに位置を掴めるように様々な演出をしている。実社会の肩書きに比べて、非常に高度な演出が必要だと分かる。伝えるというのは、とても難しいコトなのだろう
存在感を伝えるのに、音や振動、空気の変化を演出したり。あり得ないコトを起こして、まだ見ぬキャラクターに興味を注がせたりする。あえて見せない事で、関心をひかせるのも大きな演出だろう
肩書きが利かない世界では、いろんな工夫をするしかない。現実社会は肩書きだけで済むので、とても簡単に出来てるとも言えるだろう
肩書きで済む世界と、様々な演出をしなければ何も伝わらない世界と、どっちが本質に沿っている言えるのか?少なくとも伝えたいという意志は、想像の世界の方が強いだろう
現実社会は服従儒教の恐怖によって、人間の位置が構築されているだけ。昔の名残りの中で本質が疎かになっているだけ。想像の世界の方が、本質に沿っているというのは皮肉かもしれない
現実社会と想像社会の違いは、実体の自分がその中にいるかどうか。現実社会では自分が存在する。それからは逃げられない。とすると、社会の中で自分がどう振る舞うかを考えていないといけない
想像物は、自動的に話が進む。作り手はいろんな事を考えるだろうけれども、読者は自動的に進む内容を追うだけでいい。振る舞いや恐怖を感じる必要は無いだろう
もしも現実社会が恐怖ではなく、本質で構築されていたらどうなっているのか。肩書きのような簡単な判断基準がないのならば、自分で判断するしかない
おそらく判断能力は必要になるだろう。逆に言えば、服従儒教があるが為に日本人は自分の判断能力をはぎ取られている。そう考えられるかもしれない。同時に漫画の演出のように、自己をアピールする大切さも抜き取られているように思う
自分で判断する、自分をアピールして知って貰う。このコミュニケーション能力は、日本社会にはぎ取られてしまっていたのだろう。なるほど、コミュニケーション能力がないというのも当然かもしれない。昔からの名残ではぎ取られ、恐怖から消極的になるならそりゃコミュニケーション能力もなくなるだろう。そう思う